夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

池田晶子さんの勁さ。

近日池田さんの「事象そのものへ!」が新装版で出版されることから、同書の読み直しを行っているわけである。

改めて感じることでもなく、残念ながらの事実であるのが、我が読解力、理解力の脆弱さだ。20代の池田さんの書かれた文章に、亀のように、蝸牛のようにのろのろうろうろへばりつくのみだ。
とまれ、シャーペン片手に読み出して見ると、驚くかな、唸るような名言、僕のたいしたことの無い琴線、のようなところにぶらんぶらんと引っかかる文章が溢れかえっている。イキオイ、ただでさえ遅い読みがつまずき、止まって戻る有様だ。

だがそのことが返って嬉しかったりする。

20代の池田さんと、40代の池田さんが、別々に居たわけでもなく、それはイケダアキコ、という事象のその時期時期の宇宙に於けるツブヤキ、であるのであるが、ではさて、そのイケダアキコという事象とは、存在とは?1冊の本として表出された池田さんの言葉は、その硬い手触りとともに一個の詩の語句の塊を手にしている、の感がある。

それは言ってみれば”勁さ”と言ってもいいのかもしれない。

例えば”禅についての禅的考察”(法蔵館版”事象そのものへ!”P.204)を見てみる。

僕が、禅、というものはなんなのか、という問を持ったときに与えられるべき答えの全て、と思いたくなる、禅の”わかる”、"悟る”とはなんなのかとの感覚を持ったときにやってくる”わかる”が、ほら言葉としてこの本のここにあるよ、と”わかった”(まあ、自分なりに)。

池田晶子、という現象が発する言葉は、それが池田さんが発しても、例えば川上未映子さんが発しても、言葉を発することのない絶句しつづける名も無き生活者(そう、砂漠後のランボーのような)が発しても、同じ内容である真実の言葉であるのだが、しかしまごうことなき”池田色”もこれまたある。"池田感”とも言っていいかもしれない。

これはなにか。

宇宙の見る宇宙大の無限の夢の中で、絶対的な孤独の中に独り屹立しつづけた池田さんの魂の”勁さ”、その孤高さが、人の世に北極星のように光っている。

その光にいわばふらふらと吸い寄せられ周りを漂う。決して同じではないもどかしさ、いつまでたってもその中心核へたどり着かない焦燥感を持って。それは永遠の真実を言葉にしようとしてもいつまでも出来ない、言葉、というもののむなしさにも通じる。言葉がむなしいのではない。言葉を操るこの魂が2流品なのか。

いずれにしても太古、母なる太陽の運行にあわせ走った者のように、僕はこの”北極星”を仰ぎ見てその方向らしきものを追いかける。

一片の夢のような数千年、数万年の”言葉を見つけた”人間の歴史を見つめて放たれる真実。言葉はそのまま空中に固定化され、漂い、固体化するような。仏像でのあの表現は、言葉のもつその力、を意識したうえでの表現なのかもしれない。池田さんが自らを巫女、と自任されていた理由でもあろう。

池田さんが”この世にちょっと居残っている”魂たちに残された問い、”さて死んだのは誰なのか”。

僕の今の答えはこうだ。

”やはり、池田晶子である。”

事象そのものへ![新装復刊]

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事象そのものへ!

事象そのものへ!