夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

鈴屋。

松坂城にある、本居宣長が12歳から72歳まで住んだという鈴屋を訪ねた。

先般、京都を訪ねたときは、偶々であるが国学者伊藤仁斎の墓に二尊院奥で出会っており、鈴屋のほうは意識して訪ねたわけではあるが、短期間に偉大な国学者ゆかりの地を回ったような形になった。

小林秀夫の”本居宣長”を読むと、この鈴屋のことが出てくる。小林はこの蒲生氏郷城址に移設されたここを2度ほど訪れたという。冒頭では山室の妙薬寺にある墓を、ある日小林が鎌倉から思い立って大阪ゆきの列車に乗る、という形で詳しく述べる。

実は僕は仕事の関係で、この奥の墓所の傍を訪れる機会が少なくなく、確か前にそこを訪ねた記録を本日記に記載した記憶もある。

ピルグリム池田晶子流でいうなら、”たのしいお墓めぐり”である。

肉体と精神は別である、ということは池田さんに教えて頂き感じるところであるが、そうであればよけいに一時期魂のありし場所であった肉体、というか肉体の一部である骨のある場所を訪ねることは、その魂になんとなく接近した、という感じが確かにする。

僕の父方は神道であり、母方は祖父があえて”無神教”を標榜したと聞くので、そして母親は洗礼を受けており、僕にはクリスチャンネーム(幼児洗礼ですが)があり、といういわばややこしい宗教的生い立ちから、”墓参り”という行為にこれまであまり縁なく生きてきたが、この年齢になって拘り、というものがやっとのことですこし削れてきたのであろうか。

生と死、について、怖がらずに、といえばかっこいいがそうではないにしろいわば少しは冷静に見ることができるようになったからかもしれない。

これも池田晶子さんの著書からであるが、”弁証法的統一”という意味について、

”「ある」があっての「ない」であり、
  
「ない」があっての「ある」である”

ということを学んだ。
  (考える人 P.31(文庫版) ヘーゲルの項より)

ああ、この考え方に照らせば、

「生」があっての「死」であり、

「死」があっての「生」である、

ということがなるほど言えるわけなのだな、と最近になって気づいた、のである。

うららかな、というより歩くとすこし汗ばむ陽気のなか、本居宣長が住み、座り、考え、書いた場所に来ると、なにか特別の空気を吸っている気がしてくる。

奥の間、ここは鈴屋のなかで一番広い部屋で、宣長が弟子に授業をするときに使っていたという。

床の間にはレプリカではあろうが、宣長が61歳の時に自画自賛した絵が掛かっている。文字通りの自画自賛、美術の時間に自分の顔は描いても、自賛の機会はあまり現代人にはなかろう、そして”自画自賛”ということばには、おごる人の行為、というニュアンスが強く漂う。だがこれは言葉に薫滲したドクサ、というべきであろう。



自賛、の部分は、新潮文庫版で僕が持っている、前出の小林秀夫”本居宣長”の扉の部分に記載されている。いわゆる”万葉がな”であろうか。

”古連は宣長六十一寛政乃二登せといふ年能秋八月尓手都可らう都し多流おの可ゝ多那里”

(これは、宣長61寛政の2とせという年の秋8月に、手ずから写したるおのが形なり)

”筆能都い天尓

志き嶋のやま登許ゝ路を人登ハゝ 朝日尓ゝほふ山佐久ら花”

(筆のついでに

敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花)

絵の傍の説明が”賛”なのである。決して自らを褒め称える行為などではないことがわかる。そして奥ゆかしくも”筆のついでに”と書き加えて、遺言状を71歳でしたためたのちは桜の歌を300首も残したという宣長の”真骨頂”である桜の歌が、添えられる。

なんともはや、香り高い人生、というべきであろう。
このように、ありたいものだ。

2階には53歳の時、物置を改造して作ったという書斎。建物全体が”鈴屋”かと思っていたが、実はこの部屋のみが”鈴屋”なのであった。

急な7段の箱階段。現在取り付けられたものより、宣長が上り下りしていた階段は1段段数が少ない。これも展示されている。

鈴屋、これは4畳半の部屋である。窓は巨きい。移設されてはいるが、宣長は山桜の咲くころ、この窓から松坂の山並みや城の桜を眺め過ごしたのであろう。

床の間には、師事した賀茂真淵に由来する「縣居大人之霊位」(あがたいの、うし のれいい)の掛け軸がかかる。師の霊を身近に感じ、励ましてほしいという思いであろう。自らのなす仕事を、師の視座で見たい、という意識であろう。

この書斎にいた宣長の充実を、思った。


うらやましい、境地である。再び思う。
このように、ありたいものだ。