夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

神とはなにか。

最近私は、〈神〉のことばかり考えている。
いや本当言うと、いつだって〈神〉のことしか考えてはいないのだが、〈神〉と言ってほとんど通じたことがないので、あまり言わないだけである。

  池田晶子 魂を考える P.198より

「おそらく」、宇宙は、善の極と悪の極の二極から成る。
歴史、すなわち魂の群れの移動は、善の極と悪の極の間を大きく振れ繰り返しながら、しかし螺旋状に上昇して、最終的には善を目指す。
善を善と死っていて、それを欲しないということはないからである。
善を善と知っているというそのことが善、したがって努力するということであり、善を善と知らないというそのことが悪、従って堕落するということである。

  同 P.123

神話というものはなんなのだろうか。ずっと荒唐無稽に聞こえていた。原始的な時代の原始的な宇宙構成の試み。
本当にそうなのだろうか。
自分と世界、生と死、なぜに今私はここにあるか、の驚き。

そうしたものがないまぜになり、長い間人間、という種が、考え導き出した“仮説”、それがなんだか”神話”というものではないかとも思われてきた。

科学が人間の眼を曇らせるという面が確かにある。曇らせる、というのか、思いあがらせる、というのか。

ただ、科学にはすべての人に平等に与えられていた、”考える”を科学者のみのものにした罪がある。いま、”ふつうの人は考えなくてもいい”或いは”(科学的手段を持たないので)考えられない”。

そう、”科学が真実を突き止める。僕らはそれを聞くのみだ”という風に、思い思わされて生きてきた。”なんでも科学で究明しましょう”。

だが、どうやら科学とは旧来”魔術”と言われていた考え方のアプローチの裔であり、だがそも魔術には”わからないものがある”という謙虚さがよりあったようにも思う。

だがその謙虚さが、神や悪魔、へ頼ることに近づくときの危うさのため、その怪しさ、うさんくささのため、魔術は科学に名を変えたのであろう。

なんだかそう思うのである。”神は死んだ”もあったし。

だが、しぶとく、根っこはいっしょだ。

皆が思い思わされ、信じるところも。”宗教”といわれることもあったのかもしれない。


この”科学教”、これは実はものすごく根深い。”科学を疑う?アホか”

これである。そも疑うべくもない自明の理。前提条件。


ほんとうにそうなのだろうか。


科学がアプローチできる分野は多いというかたぶんほとんどだし、その報告は万人向けだ。だが、すべて、ではないだろう、たぶん。

そのことで文字通り”蒙を払って”くださったのは、池田晶子さんである。あらためて感謝したい、その(書物を通した)出会いを。

だが、実際に会うと、本で会う、の違いは?




・・・魂的にはたぶんそれほど、違っていない。




・・・”美への感激”的にはたぶん全く違うのだろうが(苦笑)。



このあたり、形而上学的才能のある論理型人間である池田さんとは違い、完全に視覚型人間であるが故の性(さが)である、と言い訳的にもやもやしてしまうのが、僕、という人間の癖であり、限界なのかもしれない。


でも、仕方ないですよね。



魂を考える

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