青春、むつかしい言葉である。
「青春とは、心の若さである。」
・・・では、”若さ”とは?
「心が、好奇心を持っていることである。」
好奇心があれば、なぜ”青春”であるのか、あるいは”若い”のか?
「好奇心があれば、新しく、何かを求めるからである。」
何かを求める。
自分に向かう、好奇心もあるだろう。自分を深堀することで、世界の底が、抜ける。
では、心が若いことと、肉体が年老いることの、関係は?あるいはどう折り合いをつけるのか??
「肉体の老いもまた、自らにとって初めての経験である。老いることの変化に対する好奇心。」
・・??そうか?
「老いるのは、生という事象がすべからく含む、段階である。生きている、いま、ここに、在る、ということと、老いることは、セットであり、かつ本質的には別のものかもしれない。」
老いている、ということと、例えば、病んでいる、ということは、精神とは、別であると?
「精神はそういうものとしてある。老いることも、病になることも、その本質とは別である。あるいは、従属的条件である。」
・・・??そうか??そう思うことで、老いること、病になることから逃げているのではないか。結論が、”病から、老いから、眼が離せる”ということを本能的に感じて?つまりどこかで”自己誘導尋問、あるいは単なる”そう言う風に思い込みたい”ではないか。
「・・・そうかもしれない。」
だが単に、好奇心をもつことは、楽しい。生きることが、探究となる。どう考えようと、今日は目の前の未来であり、新しいことが起こらざるを得ない。同じことのようでも、別である。
そんなたたずまいが、少なくとも、生を、いきいきさせることはあるだろう。
同じマンガを見ても、笑いながらみると、より面白く、あるいは幸せに見ることができるという。
同じ、生なら、なるべく楽しく、ということはあるだろう。
池田晶子さんの書かれるもので、幸せや笑い、ということは対象としてあまり書かれなかったように思う。それはつまり、生を楽しみ、生に驚き、基本的には上機嫌に生きられたからではないか。生きることはめんどくさい、と、時には直截に、おっしゃりつつ、読むと元気になるあの文章をたくさん、我々に、僕に、届けてくださった。
ああ、ご自身の文章を自ら読むと元気になる、とおっしゃっていたこともあった。
文章が、自分ではない、真実を語っているからであろう。
真実を語る口、自らの口であっても、それはその前に真実。
真実を前に、この一個の生。過大評価も過小評価もない、生。
それはなんだか、真実という教師の前に、すこしかしこまって立っている小学生のような、そんな感じがする。
所詮、小物ですから(笑)。