夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

孤独。

さて、

今週考えていたテーマである、”孤独”について。

そもこのテーマを考えたきっかけは、山口県限界集落で、近隣の6人を撲殺した事件が発端だ。

”つけ火して 煙りよろこぶ 田舎者”

記憶で書いているので、漢字その他、正しいのかは心もとないが、犯人と目される男が窓に張り出していた”句”である。5,7,5のリズムであるが、これを何と呼ぶべきかはわからない。

実はこの句を見たときの、僕の解釈は、自らを火付け人、煙りを喜ぶもの、田舎者、と客観的に諧謔できる男なのだ、犯人は、というものだった。

この男は複雑だ。

そう思った。

田舎に住んで、自らを”田舎者”と言い、俺は付け火を喜ぶ男だ。田舎ものだ。周りのものよ、こころせよ。

そんな脅しだと読んでいた。


しかし、先日つかまった男の供述から、これはうわさをたれながす、周囲の”田舎者”を糾弾する句としてつくった、ということがわかった。

ちょっとがっかりした。ああ、それなら底が見える。

他人に、自分の孤独を、押し付けていたんだな。

”オレの孤独を、オマエらなんとかせんかい”

そう思っていたのだな。



これはこれで恐いことは恐い。しかし、自分がなにするかわからないぞ、と脅す句を窓に貼り付ける男よりはわかりやすい。

しかし、みなさん普通にそのように解釈されていたのだろうか。ちょっと私の深読みだったろうか。。


池田晶子さんの著作、どこだったかはいまわからないが、たしか最近の若者(という類型化は池田さんはされていないがともかく)が人を殺してみたかった、という気持ちを持って、”ためしに”人殺しをしたと供述したのに対し、”人を殺してみたいのなら、自殺しろ”とおっしゃったのを思い出した。

正論だ。

このきちんとした正論が、ほかではなかなか読めない。昨日ちょっと書いた、高峰秀子さんならそう思われたであろう。しかし、人になにも期待しない、厳しい境遇であった高峰さんは、思われても書くことはなかっただろう。

高峰さんになにかを言いたいのではない。池田さんの、”聖なる孤独”を思ったのだ。

                                                                        • -

私が、ギュスタ−ブ・モロー、という画家が好きであることは何度も書いている。どこが、というよりも、とにかく吸い寄せられるように、”お、この絵は自分に向けてかかれたものだ”という感じをつよく受ける画家として、好きなのである。

そして、絵がブンガク的すぎる、と非難されたらしいモローが書いた文章、これがまた自らの絵に対する心構えを直裁に示す。

これだけの思いを上手く文章にできる画家の絵が、ブンガク的にならないわけはない、とちょっと苦笑を誘うような、ちょっといい意味で”語るに落ちた”的な感想を持ってしまうのであるが、いずれにせよ。

夢を集める人 p.18から見てみよう。

”芸術においても、実人生においても、真実への愛は血に活力を与え、途方もない喜びを与える。真実とは数学的な真実ではない。私の言う真実とは、人間の心情と魂に由来する、素朴で、正確で、明らかで、優しい感覚のことだ。こうした支点を持たなければ、芸術作品は、人間の実存同様、つかの間の不快な空想にすぎなくなってしまう。”

モローが真実への愛、つまりは”愛”をそのすべての創作の、人生の源と考えていたのがわかる。僕も、そうでありたい。

続けてみてみる。p.26.

”孤独はあらゆる思考が住まう自然の館だ。詩人に想を与え、芸術家を造り出し、そのあらゆる形式と名において才能を刺激するもの、それは孤独だ。”

モローは、晩年の画学校の教授をのぞけば、両親とすごし、父が亡くなってのちは母とすごした。結婚はしなかったが、生涯の恋人はいた。ただ、公ではなく、同性愛者とも言われていたともいう。

・・・孤独だ。

若くして師と仰いだシャセリオーを亡くし、次に父を、そして母を、最後には秘めたる恋人にも先立たれる。

その折々に、死者を悼む、捧げる作品がある。その哀しみが、昇華している。

いや、他人がたやすく”昇華”などとわかったようなことを言うべきではない。

そう思わせるような”悼み”がある。

”しかし、孤独には、それが神によって与えられた孤独ならば、切り離すことのできない道連がいる。それは貧しさだ。孤独で貧しくあること、それこそが精神世界の英雄の秘密なのだ。少ない持ち物とともに、少ない相手と生きること、限られた物質的な要求と魂の限りない満足によって、良心を無傷のままに保つこと”

同p.28

世捨て人、という人々がいる。兼好もそうだったろう。高野野十郎も、そうだったろう。

あ、わかっちゃった、あとはただ生きていけばいい、と大学卒業後に思われた池田さんもそうだろう。好きでもない女優を50年やり、それ以降は完璧な家事をやり、それ以外はベッドで本をただむさぼり読んだ高峰秀子もそうであろう。

そしてモロー。

全ての人が、”聖なる神に与えられし、孤独”の存在を知り、それを愛でた。真実の愛で、いや、愛でもって。

”私は芸術を非常に愛しているから、自分のためだけに創作するのでなければ、幸福であることができないだろう”

同p.54

なんとも、赤裸々で、身もふたもない、あられもない告白。

だが、それが真実なのだ。創作、はそこからしか生まれない。

究極の自分への愛。


で、そこで池田さんにひっくりかえしていただく。

”自分とはなにか”


あはは、宇宙とはなにか、生とはなにか、生きるとは。

池田さんの朗らかな笑い声が聞こえるようだ。


世捨て人 池田菩薩の 掌の上

(掌=てのひら、はしょう、と読んでください)

冒頭の男にならって、句をつくってみました。。



私、実は吉川晃司、という人の、佇まい、生き方のようなものにずっと共感を持っているのであるが、その初期の歌詞に曰く、

”素敵な 孤独など どこにもないのさ

   君がいなければ ただの さみしがりや”

”Rain Danceが聞こえる”より。

私、まだまだ、このレベルの、ようです。