夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

金の意味と価値。

したがって、「お金」というものの価値も、ただ数字だけではなく、また大勢が欲しがっているとか、世の中で流行っているとか、そういった他者の評価でももちろんなく、各自が自分にとって、自分の未来において、どのように活用できるか、と考えたときにだんだん見えてくるものなのである。

 他者に対する見栄を張るくらいなら、自分に対して見栄を張れば良いではないか。同じ金額のお金を持っていても、自分が成長すれば、それだけ価値が上がるだろう。同じお金で、より広く、より高い可能性を実現できるようになるからだ。

 お金というのは、自分の未来の可能性を考えるツールの一つだ、と捉えるのが、最も近いように僕は思っている。

森博嗣 お金の減らし方 P.78 2020

森博嗣さんの文章は、なんというか直截の力がある。ひねらず、直球で、真実をあからさまにさらす。それでいてどこか暖かい。

そんな魅力があると思っているのだが、この文章もなんとも含蓄がある。

お金、というのは見栄やエゴにまみれやすい。複雑に見えるし、その存在に圧倒されるし、生きることを左右するなんだか「神の道具」のようにも思えてくる。

森さんはこうした変な怯えや思い込みを指摘してくださっている。エゴというものはとにかく「宿主」であるこの「個体・個人」が生き延びれば、善悪は元より関係がない。

なので、ネガティブな気持ちであっても推し進める。ネガティブに悶絶することで、生を「負に満喫」できるからだ、と思っている。

まあ、生きているからいい、というエゴの特性を知れば、いや、負の満喫はいいですから、といいたくなる。できればPOSITIVEな満喫をお願いしたいではないか。

エゴはかまわない。いや、負でもなんでも、宿主が生きていけばいいのである。

ここのところが、難しい。

金とはエゴがまみれる、エゴの一番身近なお友達だ。なので、金を汚らわし、という感覚も生まれやすい。汚らわしい、と思っていれば、それに翻弄されるリスクが下がってくる。この心境もまた、エゴのなすところのものだ。

森さんの文章を読むと、エゴにまみれた汚泥の中の真珠のような、金というものの、いや「お金」といっておこうか、お金の真の力が垣間見える。

それは、正しく見つめれば、自らを高め、将来の変化を助けてくれる力を持つ。だがエゴや見栄でお金を見つめると、それは覿面に「カネ」に成り下がる。いわゆる「カネにオンナ」などとカタカナでいやらしく書かれる、あれである。

「お金」により、我々は機会や時間や健康にアクセスできる。だが魔法の呪文(スペル)の如く、出た力を白魔術で運用しなければならない。黒魔術として使うことが、あまりに容易であるのだから。

ご用心、ご用心。

(ついつい酒や課金に。。。いかんいかん(´;ω;`))