”私は私自身に対しては決して死なない。私は単に他人に対してのみ、すなわち私との絆が断たれて後に残されてゆく人々に対してのみ死ぬだろう。
死の時は新しい、一層輝かしい生への誕生の時である。”
フィヒテ 「人間の使命」1800年
大峯顕 宗教の授業 P.44
”私は認識と言葉を殺した。私がそれらを生きるのだ。私が認識であり、私が言葉なのだ。”
池田晶子 新考えるヒント P.41
”しかるに詩においては、人間は物が物自身のことを語るのを聞くのである。”
マックス・ピカート
大峯顕 宗教の授業 P.103
”思想を持ちたいと思う人は、その前に真理を欲し(後略)”
オルテガ 大衆の反逆 P.71
”確信とは、自己が自己に生きること”
池田晶子 新考えるヒント P.30
病気になると、自分の魂まで損なわれるように、人は思いがちであるが、良く考えると、体と魂は、別々なのであった。
しかし、”体こそ私”と根強く思い込んでいる、これはたぶんほとんどの人間の”初期設定”なのであろう。
しかし、自覚的にそのことを考えると、体により魂が損なわれることは無いことがわかる。ただし、そのことを考えないと、体の不調に魂は影響されうる。
このことをいうと、”病気の苦しみをいま体験していないからが故のお気楽な意見である。いまの俺の苦しみをみろ!”という反応がありうるのかもしれない。だがしかし、かの池田晶子さんは、自らの肉体が癌に冒されている中で、あの透明な文章を毎週のように生産されたのである。
同じく癌を患う自分を表現していた作者に対し、”一人静かに考える時間を大切にせよ”と助言され、世間?からは”自らがガンでもないのになんという非常識な意見をいうのか”といったような反応があったようだ。
しかし、そうではない、おくびにもだされなかったのだが、自らもまた、癌を患う身であられたのだ。
それをいったら、世間は違う風に誘導される。考えたいように、考えてしまう。
はたしてそのような配慮はお持ちだったのかどうか。
そも肉体と魂が別であれば、言い換えれば肉体は魂の今生の乗り物であれば、本当はそのことをそもそもいう必要はない。
だが、そのことをいいつつ、かのことに意見を述べることの果てしない距離。それを想われ静かに吐息を吐かれつつ、だがガン患者への心からの助言を、世間の誤解からの非難をあえて受けられつつ述べられた。
なんという、おせっかい。なんという親切。
魂が肉体にただ乗っているのであれば、その乗り物が寿命を迎えればどうなるのか。
フィヒテは”新しい輝かしい生”の始まりだといった。
なんらかの形で、どこかにある。あるいは、居る。
そのような感じにどうもなってくる。
これを感じるのに、”宗教”ははたして必要なのか。
”宗教”の考えは、本来は本質を考えるための、仏陀の、キリストの、あるいはプラトンの、考え方から生まれたものではないか。
ただ、”死”をうまく考えられない、という人間の初期設定、これをどう考えるかのマニュアル、あるいはショートカット、はたまた処方箋。
そんな役割を”宗教”は自然と持つようになったのではないだろうか。ただ、それを伝えるには、対価が必要だ。
そのニーズが”宗教”を生業とし、集団化した。
そんな感じではないかなあ。
・・・というようなことを、今日、ぼんやりと、考えていました。