夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

歌心。

”「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という彼の楽が、やがて自分の学問の内的動機に育つという強い予感、或は確信が、強く感じられるからだ。”

 小林秀雄 「本居宣長」 上 P.56 新潮文庫

学問、とはなんだろうか。

寝食を忘れるほど熱中し、それを”果てしなく”継続することのうちにいつしか学問となる、道となる。

そのような流れで、無理やりではなくそうなってゆく。それが、一番であろう。

そしてその教えとは、自らの熱狂を、日々の姿を、ともに見せて溶け合ってゆく。

そのような形であろうと思う。

いまは、”稼ぐ手段”と成り果てている、”生きるテクニック”となりはてている。そんな嘆きを耳にしつつ、しかし僕たち私たち、学校ではどう学ぼうか。

葛藤があろう。しかしたぶん、接する、ということも重要なのだ。

接する=縁。

”えにし”とも発語したくなるもの。

ああ、ここでこの出会いがなかったら。


ひんやりと、薄氷を踏むおもいで、自らの足跡を顧みる人もあろう。そういう人は、幸せである。


本居宣長を通して、小林はみずからの足跡を、来たりし思いを、振り返っているようだ。

静かなものかもしれないが、確かにある”内なる熱狂”。

それこそが、学問を、”学ぶ”を、継続させるもの。


人に認められるためのものではない。”我が内にある道徳”の声を聴き、従うべきものだ。


さて、振り返ってわが身はいかに。


これほど多く、小林秀雄の”難解なる”書籍が読まれた背景には、もしかして人々のそのような思いがあったが故か、と思っている。

本居宣長〈上〉 (新潮文庫)

本居宣長〈上〉 (新潮文庫)