・・このテーマで幾度となく同じことを述べてきたようにも思うが、重要なことなので怯まず又書いてみたい。
池田晶子さんが宗教に接する態度、というものへの納得と信頼感、これは”池田某”としてこの世で過ごされる姿を我々が文章を通して見る中でも出色の事柄である。
すくなくとも私にとっては。
どの辺りが?
生とは何か、死とはなにか、私、とはなにか。
悩むな、恐怖するな、”信じる”に陥るな、とことん考えよ。
これが池田さんが我々にずっと伝えようとされたことだと理解している。
”貴方の頭一つ以外になにが必要なのですか。”
従って、”考えるなしの信じる””考えるわずらわしさを無意識に避けた結果である信じる””そうしておけば楽だからの信じる”というものには激しく違和感を表明され、そこに僕は大きく納得したものだ。
自分の生を自分に取り戻す。
前回の項、人は初期設定で自分は死ぬとは思っていないことが大半だ、と書いた。
そこに通じる考えだ。
だから結果としてそういうことを求める宗教、は否定され、自らが教祖とされたらおしまいだ、とあわせて述べられる。
自らの語ることばが通じる真実性と、そのことばの逆説的破壊力を明確に把握され、同時に釘を刺すこの鮮やかさ。思わず”池田屋!”などと声をかけたくなるような水際立った言葉であり生き方である。
一方で”考えるを促す宗教”には親近感を覚えていらしたと理解する。曰く禅仏教、曰く大峯顕氏が示す死生感。
”哲学”は”考える”の異名であり、それが”宗教”も”考える”の異名たりうることへの理解であったと認識している。
自分の頭一つで考え始めれば、全ては一、一は全、一瞬は永遠でありいまこの瞬間の永遠こそ真実であり、貴方が確実にその手にしている真理である。
そのことを教えて頂いた、という意味では言葉の本来の意味での導師、であり、そして神の真実をその口で告げる巫女、と自称されたのもその辺りからであろう。
私が、言うのではありません。真実が、この口を使ってあふれ出ているのです。
なぜか確かに口調は神託の如し。
このような人と同時代にあった、ということはなんとも素晴らしいことである、と改めて思うのである。