夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

生老病死。

”俺は人間でありたいとは欲しない。何か謎でありたい。”
                            埴谷雄高

「死霊」7章において、「私とは何か」という問いは、「何が私であるのか」と問われなければならないと埴谷が明言した時、「自同律の不快」といういかようにも解釈し得る魅惑的なことばによって、彼にそれまで曖昧な共感をよせていたいわゆる文学者たちの多くが蒼ざめ、そして再び単一的同質的な自己撞着の日常性へ還っていったに違いない。
 池田晶子 P.16 最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論

素晴らしい先人をまねすることに戸惑いがあってはならない。
                  レオナルド・ダ・ヴィンチ

出家に惹かれるシッタールダ王子を思いとどまらせるため、父王は彼を王宮に止めるも、老病死の現実はたまに門から出でて病人や葬礼にであうことでも深くシッタールダ王子を悩ませることとなる。

生まれてすぐ生母がなくなり、生母の妹を後妻とした王ともども、不足なく育てられたシッタールダであるが、確かに知らせられなくとも生母が亡くなったということはなぜかその子供には感ぜられるものなのだろう。

そのことが彼にとっては”生”を”死”と直接繋がらせたのであろうし、そのことが続く”老病死”を近しく導いたともいえるのだろう。

車寅次郎は、父が酔って芸者に生ませた異母兄であり、櫻にとってはおにいちゃんであるところの半分他人であり、血をわけた”半”兄弟なのである。いわば寅次郎には生母が人為的に排除されているわけであり、そのことが彼をして”リトマス試験紙”としての行為=幼少期のいたずらであり、長じてからの出奔に繋がったのであろうし、そしてそれが又彼の聖性にもつながる。

そしてその彼の遠慮と戸惑いをひとこと”おにいちゃん”という言葉で全て癒し繋ぐ存在である”妹”が、彼にとっての生母であり、アイデンティティであり、やんちゃをして許してくれる?とこわごわと尋ねる先であり、そしてそれは確実に許してくれる存在でもあった。

無理だろう、と思って近づく近づき方がある。僕にも記憶がある。それは無理であることは悲しくも自然であり、元から両者はそれを解っている。

喜劇、とは悲劇と同意語であり、すべからく許しと癒しの物語なのかもしれない。
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話がとっちらかってしまった。ばらばらと思いの断片を敢えて書いてみたが、これはいったいなんであろうか。

列車に乗って、いまここの乗客は100年後には全ていなくなる、と観ぜられたのは池田さんであるが、新幹線で東京に向かっていてそのことを思い出し、すこし眠って起きたとき、”ああ、この列車の乗客もまた”と痛いような思いでもって感じられた。”そして自分もまた”。

新幹線が、もうすぐ富士山に到達する、という頃であった。

人は死は自分以外のところにあると、自然に感じるものであろうし、初期設定はそうなっているように思う。

少数の”宇宙人”以外は。

だから哲学、とは死を学ぶ学問、といわれるのであろうし、知命、とは死を正面から考えるべきタイミングを示す言葉なのかもしれない。

人は他人にみずからのことを聞いてほしい。

婚礼に出席した。男はつらいよ、第一作昭和44年作、を初めてみた。

僕は”寅さん”を避けていた。一番の理由は、この映画を取り巻く雰囲気、決して映画自体ではないが、それを見る”大人”たちがすべからく発する”日本人はこうでなくっては”という強制感、おしつけがましさであったろう。子供時分から僕は”おしつけられるもの”が本能的に我慢できなかった。それは道徳の授業であり、初詣であり、小学校の(強制ではない)制服であったりした。

めんどくさい。

端的にそう思った。自分のコントロール下にある時間に、そうした”ドクサ”の染み付いた存在を入れ込むのは損である。

そう思ってきたのである。いまでもそうだ。

だから、時間がかかる。TVでも紅白はほとんど見てこなかった。大河ドラマもそう。そして”寅さん”。

しかしわかっていた。自由に見せてもらえるのなら、多分好きなのだろう。やはりそうだった。

すこしずつ、こだわりをこわごわ解いている。自分からやっている、というのが呪文だ。紅白もみた。大河ドラマもみた。

寅さん、も見たのだ。

歳をとる、というのはこういうものなのかもしれないと、思った。

定番を、定番だから、ではなく、自分と向き合うものとして味わうことができる。それには、受け取る側の広がりが必要だ。

批評なく、定番を受け入れることに対して天邪鬼だ。

そのことは今でもそれでいいと、思っている。

でもまあ、自分に取り込める準備が出来たなら。

定番であるかどうかは、自分で決められる、という自信、みたいなものがすこし芽生えたら。

試してみてもいいのかもしれないと、やっとこさかもしれないが、思っている。


そんなことを映画を見て思った。渥美清、41歳。光本 幸子,26歳、倍賞 千恵子 29歳。
みんな圧倒的に若い。子供の時圧倒的な大人の世界としてみていたものが、気がつくと”青春映画”となっている。このドライヴ感。年齢とはなにか、という最近の?テーマもあわせ、もう少し考えてみたいとも思っている。

ちょっと意外に思ったのは、両女優とも髪が茶髪であったこと。茶髪とは最近のことかという思い込みがあったのだが。

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