夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

6月14日  生活に哲学を落とし込む。池田晶子さんとか森博嗣さんとか。返却しなかった本を読んで。

本日の体重64.8KG、体脂肪13.1%。うーん、やはり63キロ代に落とすべきか。。

まあ、順調に落ちて来てはいるのだが。。f:id:mamezouya:20240614060626j:image
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昨日は降雨と強風があったので、図書館に行くのをやめた(歩きで往復8000歩位かかる)。今までは天気が悪くてもガンガン歩いていたのだが、寒くて雨だとつらすぎる(暑いのはまだいい)というのが最近の学びである。風が無ければそれでも行ったかもしれないが。

 

結果的には正解だったようだ。折りたたみ傘が風でひっくり返ったのも要因である。まあ、荷物が軽く、防寒防雨が完璧であれば行く手もあるが、無理はしないようにした。

 

副次的に、まだ読み切っていない本を読み進めることができた。これもめぐり合わせ、天気が良かったらこの本はもう読まなかったかもしれないのだ。返却しなかった本は、森博嗣さんの「道なき未知」。2017年の発刊であるが、掲載誌が途中で休刊(廃刊?)になりWEBで時間を経て復活?したものをまとめられたものである。私は森博嗣さんのエッセイが好きで、だいたい読んでいる感じなのだ。

 

なんというか、森さんが無理せずご自身の資質に合わせて思われたことをただ書かれていることが、いわゆる「文系脳」につきささる。数学でも計算ではなく発想部分が好きだとおっしゃり、国語がとにかく苦手とおっしゃる森さんは、数学をやるとまさに頭が涌いて、叫び出したくなる私とは反対の脳をお持ちなのであろう(そんなにいやなのに、ある程度死ぬ気でやった点だけは、自分で自分を褒めたくなる)。似たような脳を持つ方(たぶん文学者の脳が私に一番近いだろう)のものを読むよりも、まったく別の発想からくる考え方が新鮮だ。

 

私は国語の時間が楽しくて仕方がなかった。とにかく「勉強」という感じが皆無だったからだ(漢字は読めたが書けなかったのだが)。この逆の感覚をもって森さんは名古屋T海中学・高校で過ごされたのであろう。私はT海中・高出身ではないが(神戸出身)、あそこは「算数できる奴が帝王」という雰囲気が濃厚すぎる場所なのだ。

 

森さんの奥さんは多分典型的な文系脳をお持ちである気がする。なので、30年以上連れ添っても「いまだになじんでいない」「発想に驚く」とおっしゃる。相互が自由であり、相手の自由を侵害しないことが一番だとおっしゃる発想を聞くと、なんというかすがすがしい気持ちになる。

 

そう、私なら「30年連れ添った相手のことを、公共の場で”いまだ馴染んでいない”というと相手が傷つくのでは?」と思い、仮に本当にそう思っていても書くのを躊躇するであろう。だが森さんが「お互いの自由を侵食しない」ということを大切に生活している、ということを聞くと(読むと)、そちらの方が風通しがいい、お互い楽だな、と思うわけだ。

 

一例ではあるが、このあたりが「森博嗣を読む愉楽」ということになるだろうか。

 

私は池田晶子さんが大好きだが、池田さんも「哲学脳」をお持ちだと思う。森さんの「理系脳」と同様、私の「ずぶずぶ文系脳」からするとその言葉がやはり新鮮につきささるのだ。

 

哲学脳は、文系脳の一種ではあろうが、私は論理が大の苦手。感情と雰囲気と適当さしかもっていないのだ。池田さんが私淑される小林秀雄も高校生のころは全く歯が立たなかった。森さんは1957年生まれ、池田さんは1960年生まれ、世代論は池田さんが嫌われたところではあるが、年代的には近いところだ。

 

その池田さんが1987年8月1日に河出書房新社から出された処女作(その後自ら絶版にされた)「最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論」の一部をコピーして貼り付けて本にしたものをこの前留守宅からもってきた。

 

はっきりと認識してはいないが、池田さんは晩年の埴谷さんと親しくされたものの、有名人であった埴谷さん周辺は特に晩年であるが故にいろいろ面倒な人間模様があったようだ。そのあたりからの結果論で絶版にされただけで、池田さんはその内容に関連して絶版にされたのではない、と理解している。

 

現在の中古価格は3000円代であるが、貧乏な私はなかなか買うことができず(たぶん前はもう少し高かった)、図書館で借りて一部をCOPYしたのだった。

 

アマゾン履歴を見ると、2016年に無事古本を購入してはいるのだが、なんとなくCOPY本が目についたので東京に持ってきたわけだ。

 

冒頭部から引く。

 

「何が思索を命じるか」とハイデガーが問うたとき、二千年の「忘却」の歴史を超えて、初期ギリシャの哲人たちが、そこに甦った。そして「死霊」七章に補遺「《最後の審判》に添えて」において埴谷は言う。二十世紀の三輪家の兄弟の負った課題を少数の読者は感じてくれるであろう。そしてその少数の読者の最後の読者は、「存在」そのもののはずである、と。

 

池田晶子 「最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論」 P.7

 

「存在」そのものが、「死霊」のなかで三輪家の兄弟が負った課題(それはやはり「何が思索を命じるか」であろうか)を感じている、と埴谷は言う。その存在の一つ前の席にいるのが、池田晶子さんである。哲学の巫女、その人なのである。

 

(前略)ただ、精神が精神である限り、思考がその厳密を貫く限り、最後的な課題として必ず等しく現れるところの存在の構造、つまり自同律A=Aの提示であるという方がむしろ妥当なのだ。

 

 

同上 P.7

 

ご自身の「小論」の位置づけを、池田さんはこう規定される。まあはっきり言って「自同律A=A」のところで埴谷の「死霊」を全然読み込めていない私は脱落しそうになるのだが(´;ω;`)、存在の構造、ということであれば、なんとなく「一」のような、全ては一になる、というようなところに近いものかは、などと思ったりしている。

 

(ファンといいながら、久しぶりに池田さんを読みました)