夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

夢。

夢を見ていたら、池田さんが出てきた。

池田さんは夢というもののフシギを説かれるが、僕はあまりそうは感じていなかった。例えば、寝る前に考えていたことや、今根を詰めて考えていることに関連したことが夢に出てくることが多いのを見ると、夢とはなんとなく”脳みそ”が日々のくびきをはずれ、いわば暴走して、それでそんなことになるのか、と思っていた。

池田さんは夢のフシギを説かれる。

考えることには終わりがない
在る事自体が謎である

在る事が謎であるこの存在としての自分が、”意思”のくびきなく漂いだした精神?の作用として”夢を見る”。前提が違うのである。夢を見ることは考えることとどう違うのか?そもそも違いとはなにか?

そんな風に”考えて”ゆくと、夢というものがフシギな光芒を帯びだしてくる。夢の中の書物は読めないという。いや、”実験”で無理やり夢の書物の文字を見た池田さん(!)はそこにこの世のどこにも無い文字を見た。夢とは多であり一であり、再び多であるところのこの精神が、一瞬よぎられるより自由な考えの切れ端なのかもしれない。そこに”出てくる”人とはなんなのか。自分の中に住んでいる人なのか?本当にその人の一部なのか?記憶が作り上げた”自分がこうあってほしいという”投影自己?

自分とはなにか、と考えていると、夢というものもわからなくなる。そんな夢に「池田晶子」という人が出てくるというのはどういうことか。

現実の池田さんにお会いしたことが無い僕は、夢の中でも緊張して舞い上がっていたような気がする。フシギなことに夢は時間が経つと”スーッと”抜けていってしまう。夢で見たことを急いで書き付けている人もいると聞く。この文章もその類か。話したことがあったのか、わからないが”池田さんに夢で会った”ことだけは、確かである。

オン!

オン!

”夢”は特に不思議ではないが、それは”自分”が普段は特に不思議ではないのと同じようなものだ。

「頭蓋というものは、無限を容れるには、少し小さすぎるとは思われませんか」
「存在について考え詰めてゆくと、最後のところでは、いったい何が何について何をしているのかさっぱりわからなくなります」

50歳年下の池田さんにこう切り出され、何十年も死んだ振りしてサービスに努めてきた埴谷雄高は、”くだんの編集者”に電話してこういったという。
「あなたね、あれ、ツタンカーメン発見したようなものですよ」

発見されたツタンカーメンは2007年に亡くなられ、1997年に埴谷雄高は87才で亡くなった。いまの僕はといえば、こうして二人の間で”精神のリレー”がなされた記録を、星の邂逅を仰ぎ見るように、ただポカンと口を開けて見ているばかりだ。

それもまた、面白い。