夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

生まれてきたものは。

死ぬまでいきてゆくしかないのだろう。
先に死にゆくものたちを、こころの隅で見送りながら。

 池田晶子”事象そのものへ!” P.25(新装版)

勝手に続けている、”ひとり池田晶子読書会”。いや、ただ池田さんの本を一人で順番に読んでいるだけなのだが。

"夢をみるように問い続けてゆくことだ" (同上)

前回は、たまたま読んだルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に無理やりかこつけて池田さんを勝手に”哲学の国のアリス”などと申し上げたが、案外それは瓢箪から駒、であったかもしれないと思っている。

池田さんが夢、というものに対して持っていらっしゃる思いの深さは前回申し上げた。更に引き続き”独りアリス読書会(笑)”で発見したのは、次作である”鏡の国のアリス”の中の、キャロルが自分自身を投影したキャラクターとも言われる白騎士とアリスの会話から。
 
深い溝にまっさかさまに馬から転げ落ちた騎士であるが、足の裏しか見えないのに、いつものようにしゃべり続けている。

 「からだがどうなっていたって、それがどうしたっていうんだ? わしの精神はいつだって変わりなく働いてるぞ。(後略)」

  矢川澄子訳 鏡の国のアリス 新潮文庫 P.153

ああ、これはいつも池田さんが仰っていたことだ。足が1本取れたとて、精神になんの欠落があろうか。少々いらだちからか過激におっしゃることもあった。ずっと練習をしているのに馬からころげおちてばかりの白騎士は、現実での生活で苦労していたキャロルが、自分の姿をついつい投影してしまったのかもしれない。
一般には物語りの存在理由としては最低とみられる”夢オチ”が、キャロルのこの物語では不思議な悲壮感を持って現実的なのは、夢のなかの物語に対するキャロルの真剣さを我々が感じるからだろう。アリスは決して夢のなかのはかない存在ではない。夢に迷い込んだ飽くまで”現実の”アリスとして屹立している。それが心細いたったひとりの”魂の遍歴”として描かれるのである。

そして昨日。池田さんの初期の作”事象のそものへ!”先人の考える思いの叫びを付したタイトルを踏襲した、”代々木公園で何時間もマラソンの如くジョギングしている途中でひらめき、着替えるのももどかしくトレパン姿で一気に書き下ろした”というこの本の序章の中で、池田さんがルイス・キャロルに言及されているのに出くわして、思わず(電車の中であったが)小さく声をあげてしまった。

これがいわゆるシンクロニシティ、というやつの一例か!

考えればそれほど驚くことでもないし、そういえばそうだった、というレベルの話なのだが、池田さんがかのキャロルの”ほら話”を読んで、夢、に対するアプローチ方法に、密かに感じ入ってらっしゃった、ということなのだろう。

 ルイス・キャロルは、その深淵を、軽いめまいとともに跳び越えてみせ、(後略)

  ”事象そのものへ!”(新装版) p.30

そのようなことばで池田さんはキャロルが「論理的に考え」”三段論法で思考”していたことを示唆される。

それはやはりルイス・キャロルことオクスフォードのチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン教授が、夢を一瞬の永遠として閉じ込めることを可能にしたあの2作のみの物語を、たぶん幼き日の”美しくわかっている子供”であった池田晶子さんが、自らの魂をもまたアリスとしてWonderlandを旅されたことを図らずも、示唆しているということかもしれない。

・・・ああ、この夢のなかの子供は私であったかもしれない。

そんな感じでしょうか。

事象そのものへ![新装復刊]

事象そのものへ![新装復刊]

鏡の国のアリス (新潮文庫)

鏡の国のアリス (新潮文庫)