夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論。

いま、この、現在は絶版にして古書価格であれば1万円を下ることはないと思われる貴重な本を読んでいる。

何故、池田晶子さんがこの本にこのような題名をつけたのか。

「オン!」あとがきの中で池田さんはこう述べられている。

”埴谷氏が『死霊』の中で、「自分の作品の最後の読者は「存在」であるはずだ」と述べられているのを読んだからである。”

一読、”「存在」を最後とすれば、その前の最も埴谷に近い読者は私だ”、という意気込みがあるタイトルかと思われたが、本文を読むとそうではないことがわかる。

存在、以外である”私”とはなにか。わからないが問い続けるこの括弧付きの”私”は、世界霊魂としての、あるいは私=他人、の総体としての”人類の精神”としての私である、といったときの私。
その”モノ”が発語している。

そのような位置付けでのタイトルであろうことがわかってくる。

わかってしまって、”頭のうしろから煙がたって”いて、”酒ばかり飲んでいた”池田さんが、文芸評論家諸氏の合評をみて思った。

「まあ、なんてあんぽんたんなの。」

そんなときなにもしていなかった池田さんが、とある恩師から「校正の仕事でも貰いなさい」ととある編集者を紹介を受けた。

それが運のつき、と池田さんはおっしゃる。えい、おもいだしてもハラがたつ、とおっしゃる。

実は今はこの貴重な本の内容はほぼ”オン!”に採録されているといっていい。二つを除いて。ひとつは”若書き”で修正された主題の論文。そしてあとがきに差し込まれた「文藝」編集長、「高木有」氏へのあいそがないともいえる謝辞。

けんかして書かれた、ということなので、池田さんとの確執があった”編集者”とはこの高木氏ではないか、そして絶版の理由の一つはこの”謝辞”ではないのか、と勝手に推測している。

今となっては池田さんに確かめる術はなく、間違っているのかもしれない。高木氏は今も作品社にて編集をされている模様だ。だが、たぶん、そうではないか、と感じるのだ。

だから、といおうか、評論自体に、若書き、という面はあろうが、絶版にするいわれもなく、だから”オン!”にほぼ完全に近い形で採録されているのだろう。

また、仮に高木氏が池田さんを”干した”、”件の編集者”であったとしても、池田さんの苦難は大変なものであったが、その存在がある意味豊饒な池田さんの著作を生んだ”負の母親”でもあったわけであり、池田さんではないが、まあ、時効、なのかもしれない。

だがしかし、この絶版本、25歳の池田さんへの埴谷氏のメッセージが匂いたつ、芳しき本であることは間違いない。(何故か”オン!”では26歳の池田さんへのメッセージになっている。単に間違っていたから修正、なのかもしれないが・・)

時効、と書いたがやはり池田さんの”今にみてらっしゃい!”という声が聞こえるような気がするのは気のせいなのだろうか。

オン!

オン!

そんなこんなも含めて是非!この本をこの本として復刊していただきたいものである。