夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

春。

4月の初めのこの時期、人は花見をするけれど、花にかこつけて酒がのみたいのか、などと醒めて見ていたこともあった。
しかし、この芽吹きの時期、冬が一気に切り替わるような思い、季節の変わりに動物として、自然界にあるものとして反応してこころが沸き立つ思いがある。そんな思いの発露としての”宴”があるのかもしれない、と思った。
桜に限らず、花の芽吹きがある。冬を越せずに枯れたようになっているものもある。逆に枯れたかと思っていた株からの小さな芽吹きが、思わぬ喜びをもたらしてくれる。
ああ、生き延びたんだな。
小さな庭を、中古住宅と共に受け継いでみれば、前の持ち主の丹精が生えてくる植物から垣間見える。初めはよくわからなかった思いが伝わる。
前の持ち主が亡くなって、奥さん一人では、と手放した家だ。渋い和風のつくりだが、野にある和の植物がさりげなく配されていることをこんな芽吹きの時期に気がつく。
そんな植物に接することで、この時期の植物の嬉しげな語りかけに気づくようになった。ありがたいことだ。小さな、”魂のリレー”。

”歴史は全部死者の挑戦の歴史ですけれども、もし一冊の書物のなかに存在への挑戦のかたちを封じ込められればと思っているのです。”(埴谷雄高「宇宙的思惟」)
引用 池田晶子 最後からひとりめの読者による埴谷雄高論 P.41

この本を読んでいて、暗示という手段を通して従来の哲学が苦手とする創出を小説という手段で現出させよう、としたことが埴谷が”死霊”を書き続ける理由であったことを知った。
通常僕が小説を創ろうとする意図、として認識している意識と、これはなんと違っているのだろうか。こういう意図で小説を書くこと、これは素晴らしい。
エンターテイメント、が小説の目的であると認識していた。私小説はちょっと違った要素がある。暴露と己からの解脱。エンターテイメントは危険な要素がある。”時間つぶし”。つぶすような時間があるのか。今この時間こそ永遠であり、最も貴重な己の財産であろう。面白い、というのはいい。しかし、深堀が困難なときもある。

そうして小説というものから少し距離を置きかけていたが、(自らが創作するものとして)この池田さんに対し、己が小説にかける思いを”リレー”する埴谷氏の思いを読んで、眼から鱗、であった。
”そんなアプローチがあったのか”

これは神話創作の手法だ。秘儀ともいえる創出の魔法だ。神話とはこうして生まれたものか。

そうした書物は、必ず有る一定の意識に伝わる。縁なき衆生は御し難し。池田さんは折に触れ実感として嘆かれたが、これは逆に言うのであれば、縁がある(少数の)衆生との魂の受け渡しが可能である、ということを意味する。
通常でこのリレーの反応のあまりの少なさに池田さんはがっかりされたのだろうが、出版という行為でそれは伝播力を持つようになった。そして密かな反応が徐々に増えてきたとき、池田さんは大変喜ばれたのであった。

小説、哲学エッセイ、詩。様々な形があるだろう。だが、”存在への挑戦のかたち”を閉じ込めようとすること、それこそが本を書くという行為の本来的な目的であろう。絵、もまたそうかもしれない。