映画を見た。”ニーチェの馬”というモノクロの映画である。
以下、内容に関する記述がありますので、未見で内容をお知りになりたくない方はご注意ください。
そもなぜこの映画を見たのか。まずはタイトルの”ニーチェ”に惹かれたのである。イタリア旅行中のニーチェが、御者にひどく鞭打たれている馬の首にすがって泣いて、その後発狂した。
正確に把握しているわけではないが、ヨーロッパ中の温暖な地を転々としたのち1889年にそのような挿話があるという。ニーチェは1844年生まれなので、時に55歳くらいであろうか。その後回復せず、母に看取られて1900年に死去。
といってもニーチェが映画に出てくるわけではない。タイトルからニーチェが嘆いた馬であると暗示される馬が出るばかり。巨大な馬だ。強烈な嵐が吹いている。御者に鞭打たれることもなく延々と力強く歩む。馬とは寡黙であり、おとなしくもあり、頑固だ。黙って、耐える。黙って、拒否する。しかしながら、巨大で力を内に秘めたるものだ。だから人間はそれを鞭打たねばならない。
ひどい嵐だ。荒野の一軒家に着いた御者は、娘と共に馬車と馬を倉庫に入れる。馬車は大きく、馬も大きい。娘は全身で動かねばならない。
風のひどさは尋常ではない。しかし、劇中ではこの地方でいつも吹いているものなのか、たまたまなのかはわからない。親子の会話は全く無いのだ。嵐がすごいといっても、”おかえり”も”ひどい風だ”も、なにもない。家に入るとだまって父親の着替えを娘は行う。なにか異様な感じだ。その後は食事。ゆがいたジャガイモを1つずつ。娘は一言、食事よ、というのみ。父親は片手で皮を毟り取ってジャガイモを口に放り込む。熱そうだがかまわない。直ぐに終わる。
次の日、馬は荷馬車を引くことを拒む。鞭打つ父親。寡黙な日常のなかで、突如力強い声が響く。だが馬は全く動こうとしない。娘はいう。”もうやめて”。議論もなく父親はやめる。”なぜだ”もない。馬への罵声もない。だまって轡をはずす。馬を厩舎に戻す。
このころやがて父親は片手が動かないことに気づく。だから娘が着替えを手伝う。着替えるときも、基本は咳払い。ほとんど無言。
わからない。100年前のイタリアはこういうものなのか。極端に貧しい家族なのか。嵐はひどく続いている。
2人の会話がほとんどないので、情報は限定的だ。しかしなにかがおかしい。数十年間聞こえていたキクイムシ?の音がない、と父親がつぶやく。
転機は3つ。まずは男が尋ねてくる。嵐で町が壊滅したとの知らせをもたらし、神について饒舌に語る。
流れ者の集団が来る。白馬2頭に曳かせた馬車で来て、勝手に井戸で水をのむ。騒ぎ立て、追い払え、と父親に言われて出てきた娘にからむ。
”悪魔のような目をしたわかい娘だ””アメリカへゆこう””いきたくないわ””はなして”
父親が手斧を持ってでてくると一団は立ち去る。だが最後に年かさらしい男から娘はなにか受け取ったようだ。聖書だ。
娘は一言一言、ゆっくりと聖書の句を読む。
3つ目は井戸。水が枯れたのだ。”大変なことが”と寡黙な娘が走ってもどる。水がなければ生活できないのだ。
井戸がなくなった以上この地にはいられない。家財道具をまとめて荷車に載せて、娘が引っ張る。貧しい家財道具であるが、真っ白な肌着や、少しヒールの高い靴が娘の身の回りの品である。やはり若い娘なのだ。
だがしかし、丘を越えていった親子と馬はやがて戻ってくる。再び家に入る。何の会話もない。説明もない。再び同じ日常が始まる。
同じではない。水がないのだ。
そして遂に、火がなくなる。ランプに火がつかない。かまどの火も消える。”なにがおきてるの?”遂に娘は父親に尋ねる。”わからん”。
思えば全てはなにかの予兆であったのか。カタストロフ。馬が予見し、キクイムシが予見する。ノアの洪水に匹敵する大嵐。水。そして火。
”食え!”もはやゆがくこともできぬジャガイモにかぶりついて父親は言う。”くわねばならん”。
娘はもうわかっているのか。ランプもつかず真っ暗ななか娘はもううごかない。馬がそうであったように。そう、人間もやっと理解したのだ。
以上、記憶する部分をほとんど記載してみた。いろいろなことが考えられる。ニーチェはなにか関係するのか?呪い?この親子だけに降りかかる?そうでもないようだ。逆に荒野に隔離されて生活するゆえに影響が少ないのだろう。世界は崩壊した、と思われるのである。
黙示録的な暗喩を秘めた作品だ。見終わったのちこの世界もだいじょうぶなのか、もう終わっているのか、と目線を泳がせる自分がいた。
ニーチェに魅入られたのか。崩壊するニーチェの精神のなかに取り込まれたのか。神は死んで、ニーチェの精神世界も終わったのかもしれない。