毎朝、通勤時にバインダー式のノートを取り出す。100円ショップの厚紙表紙のものである。挟み込むシャーペンも100円、リフィールも100円だ。
ことさら節約しているということが言いたいのではない。しかししめて300円で必要にして十分なメモが出来る機能が手に入る。
厚紙の表紙はカスタマイズ可能。といっても気に入った写真を貼り付けるレベルだが。ここに日記というか、主に読んでいる本の気になったフレーズを書き込む。”よいフレーズがあれば本を読む手をとめる”というルールを自らに課すようになって、本を読むことの意味が少し変わった。
安心できるようになった。
読むだけで覚えなくともよいのだ。メモが覚えてくれている。メモに残せば、反芻吟味できる。
これがとても安心するようだ。
新聞を読むときもにたような感覚だ。気になる記事、画像。新聞もカラーの時代になり、画像も対象範囲となった。
頭のどこかに残すべき対象があるかどうかを意識していること。
これは”読み甲斐”に繋がるようだ。
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いつでも何か読んでいるわけではない。思いついたイメージをメモすることもある。新しいイメージ。
イメージ力を喚起するために、画集をボンヤリながめることもある。例えばギュスターブ・モロー。理屈ではない、彼の描きたいと感じる世界が、多分僕の世界と繋がっている。
冒頭に挙げたのは”ダビデ”。足元に天使を配した老王は、しかし在る意味人間の理想像を示している。知恵と若さ、あるいは精神としての永遠。
メモにもどれば、1年前の記載を反芻することも多い。1年前にこんな本を読んでいたのか。このフレーズにぐっと来たのか。ほとんど忘れている。とても新鮮だ。
再度同じフレーズを本日の日付で書き付けることがある。読むことと書くこと、実感として脳への定着度は明らかに違う。
手を通して、脳に刻んでいる感もある。同時に味わってもいる。
脳が活性化する気がする。
自ら書いた文章を読み返すと、あれ、こんなこと書いたっけ、ということが起きる。小林秀雄は娘が持ち帰った国語の教科書の文章を読まされるが、書き手が自分であったことが最後までわからなかったという。
父親の文章を教科書でみつける娘の気持ちも気持ちだが、その感動を自らが書いたことがわからず理解できない父がまたなんともいえない味わいを残す。自慢ではない。謙遜でもない。単なる事実。単なる状況。
1年前の私は、今のワタシではない。
過去の自分から、今の自分に向けた、無意識のメッセージに、結果として日々接しているわけだ。
モローの絵、国内で編される画集では、選ばれる絵の傾向があるようだ。これは日本人の好みが反映されているのだろう。しかし知っているものばかり何度も見ていてもつまらない。比較的選ばれにくいと思われる絵を、最後に挙げておく。「岩の上の女神」。
繰り返し現れる類似のイメージの反復。
”絵画を描く”ということは、結局そういうことになるのかもしれない。