思い出した。
嘗て新聞やTVになにを求めどう使っていたのかを。
その述べるところから必要な部分のみを頂いて、のこりは関係がないものである。その立ち位置をこちらとしてどうのこうのではなく。
そのことを久しぶりに思い出した。
人が自ら耐えられるのは唯一つ、自分がそのことを求めていることを求めているときである。恋人というものは寄りかかるものではなくお互いを支えるものである。そのことを人生に悩むひとに伝える欄がある。科学とは文学の一部であったとの事実を、僕が思いつかなかった事実を気づかせてくれる記事があった。それは科学がその幼年期、”魔術”の一環として扱われていた時代のことであろう。科学はその成り立ちと目標をこの世の表象の裏にある仕組みを捉え示すことにより、この世を捕まえ制御しようという意思からうまれたものであったのだ。その不思議を感じ捉える部分が忘れ去られ、或いは敢えて隠されて”まじめな”仮面をかぶり”科学技術”という無味乾燥な生業に成り果てたとき、それはいきいきとした触感を失った。それを”パンのため”の部分的な技術と思い学ぶ仕組みのなんと退屈であったことか。
しかし、その出自からして科学とはこの世のあえて言えば不可思議、それを父とし母とするものであったのだ。物質を構成する素粒子に質感を与える「神の粒子」ヒッグスの記事を読んで、いまだというか、ずっとそうした思いが科学を突き動かしてきたことを感じた。科学とは工場でクルマのラインを設計することでは実はなかったのだ。そんなことは知らず、自らには関係がないものとして来たが、ここで初めてそのことに思い至った。新聞を読んでいてである。読書欄もまた。”言葉によってだけ表現可能になるイメージがある。そのなかに永遠に身を置いていたい。読み終えることから少しでも遠のくよう速度を落として読む。読むように書かれた小説を書くようにして読む。”(朝吹真理子 書評”ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ”より)
”憧れた誰かの歩みに迫っていくこと、それが私の道だった。”(文月悠光)
文章と自らをぴったりと対峙させているひとたちの文章は胸に迫る。詩人と呼ばれる人だったり、そうではないときもあるが。そんなことを思いださせる文章たちを孕んでいるのが”新聞”という媒体なのだ。そして絵や映像で同じことが言えるのがTVなのだ。
嘗てTVは内容が俗悪だとして糾弾された。今はこれから忘れられる仕組みであるといわれる。新聞もそうだ。しかし真実を見すえる力強い魂に出会うことができる場である、ということは忘れられないし、そんな魂がずべてWEB空間に有るとも限らないのである。
TVだ、新聞だ、WEBだ、漫画だ。そんな媒体の形はどうでもいい。要は善き魂が発するコトバを受け取りたい。それが可能である媒体であればそのように扱おう。それだけだろう。
ケルトの物語を美しい詩人の魂が日本語に移した稀有の書。
- 作者: フィオナマクラオド,松村みね子
- 出版社/メーカー: 沖積舎
- 発売日: 2002/10
- メディア: 単行本
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画面にはないが、東逸子が「かなしき女王」スカァアを描いた表紙も秀逸である。