夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

意識。

夢は”自分”が見るものか。自分とは”自分”が考えているものか。”自分”とは何か。

そんなことを考えていると、”意識”といものはなんなのか、となってくる。”動物”が持つもの、という一応の”共通認識”があるのだろうが、では植物はどうか。鉱物は?宇宙全体には意識はあるのか?

魚には痛い、という意識があるそうだ。植物は動きのレベルが動物とは違うが、動いてはいるわけで、では意識らしいものもあるのではないだろうか。

モノはどうか。日本では付喪神ではないが、モノにも意識があると感じてきたようだ。コンピュータに意識はあるか。作り出したもの、という人間側の感覚、動かない、という感覚が”モノにはさすがに無いだろう”という印象を与えるが、これはもしあっても解らない、というだけのことかも知れない。

ロボットが意識をもつのか、という問題と直結する。ロボットに”癒し”を求めうる気持ちには、そのなかに意識がある、という気持ちと通じているのかもしれない(そういえば、「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」、という小説があったが、このタイトルは端的にそんな問題意識を表している)。

自分とは、宇宙、あるいは”全体としての意識”の一部が、この肉体に”小分け”されて活動しているものだと仮にするのであれば、輪廻、というものがやはりあれはあるのであれば、物言わず動くことのないものにその小分けがないのだとどうしていえようか。

自分の意識が次はサバになる、というのは、高橋留美子の漫画に出てくるが、次は例えば”人形に”というのは、同様のレベルであるようは気もしてくる。


この時期、芽吹く植物たちを見ていると、そこに”意識”があるような気持ちには、どうしてもなってくる。植物は”見ると”善く育つという。また家は住まないと壊れやすいという。単に世話をするしない、というのとは違った理由があるのかもしれない。

そんなことを考えたのも、花の擬人化をしたウォルター・クレインのこの本をBOOK OFFで購入したことが影響しているかもしれない。

シェイクスピアの花園

シェイクスピアの花園

花の擬人化というと、他にも様々な画家が描いているが、日本ではあまり擬人化というものは流行らないようだ。これはわざわざ擬人化と銘打たずとも、そういう意識があるからかもしれない。

しかしそもそも”擬人化”という訳語自体に問題がありそうだ。人にしか意識がない、という意味が言葉のなかにはいってしまっている。うごくからだとなった意識化、とでもいうべきだろう。

花のメルヘン (ほるぷクラシック絵本)

花のメルヘン (ほるぷクラシック絵本)

リーサの庭の花まつり

リーサの庭の花まつり

花の幻想

花の幻想

上記をカラーでみるならこちらがいいようだ。
Les Fleurs Animees: 51 Coloured Plates

Les Fleurs Animees: 51 Coloured Plates

未見だが、おなじくヴィクトリア朝グリーナウェイのこの本も、傾向としては似ているかもしれない。擬人化ではなく花言葉のようだが。

Language of Flowers (From Stencils and Notepaper to Flowers and Napkin Folding)

Language of Flowers (From Stencils and Notepaper to Flowers and Napkin Folding)

そして夢のこと、自分のこと、私とは、という善く似た魂同士の対談が触媒になっただろう。池田晶子VS埴谷雄高

オン!

オン!

そして夢といえばこの本。単なるユメ落ち、とはもはや思えなくなってきている。

不思議の国のアリス (新潮文庫)

不思議の国のアリス (新潮文庫)