夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

洲之内徹。

洲之内徹にたどり着いたのもまた、池田晶子さんの著作を通してだったのだろう。

池田さんを通じて、あの小林秀雄を”再発見”した僕は、今度は小林を通して洲之内徹を知ることになった。

小林は洲之内の美術評論を”当代一の評論”と称したという。小林秀雄といえば評論で世に出たひとである。美術に関する評論も多くものしている。その小林をしてそう言わしめる洲之内徹とはどのような評論家であるのか。そのような順で興味を持ったのであった。

洲之内徹 絵のある一生 (とんぼの本)

洲之内徹 絵のある一生 (とんぼの本)

もう2007年になるのか。

このMOOKの発刊日である。


いま名古屋で正月明けの三連休を過ごしている。正月が過ぎること、まさに瞬光が如し、である。

受験生を抱える我が家、なかなか昼間からごろごろしにくい雰囲気がある。採りためた映画を見るのも、ままならない(といっても、一昨日は”エデンの東”、昨日は高倉健”駅”などを見てはいるのだが)。

そんな折、3畳の小部屋でふと本棚を見ると、洲之内の著作、気まぐれ美術館シリーズ、”人魚を見た人”と”セザンヌの塗り残し”が目に留まる。2冊とも古書価格が高かったころ、名古屋市内の古本屋で買ったものだ。

洲之内が長年綴った”気まぐれ美術館”シリーズは、気がついたときには古書価が上がっていた。1000円以上の出費でさえきつい僕は、清水から飛び降りて買ったような覚えがある。

しかし金がないことには利点もある。本当にほしいのか、吟味せざるをえないのだ。呻吟、ともいう。

シリーズは全部で5冊あるはずだ。

きまぐれ美術館
帰りたい風景
セザンヌの塗り残し
人魚を見た人
さらば気まぐれ美術館

”さらば”は74歳で亡くなってのちに編まれたものである。「芸術新潮」に1974年から(洲之内は60歳頃であろうか)14年間連載されたというが、この連載が故に「芸術新潮」誌も香気を纏った、というのは褒めすぎだろうか。

洲之内の美術評論は、きまぐれ美術館の連載まえのものを纏めた”絵の中の散歩”があるので、これも含めると都合6冊になる。ただし銀座「現代画廊」の経営者としての顔をもった洲之内の作品は、小説を除きどれも”私小説的”美術評論になっているのかもしれないが。

気まぐれ美術館 (1978年)

気まぐれ美術館 (1978年)

1978
帰りたい風景―気まぐれ美術館

帰りたい風景―気まぐれ美術館

1980
セザンヌの塗り残し―気まぐれ美術館

セザンヌの塗り残し―気まぐれ美術館

1983
人魚を見た人―気まぐれ美術館

人魚を見た人―気まぐれ美術館

1985
さらば気まぐれ美術館

さらば気まぐれ美術館

1988

絵のなかの散歩 (新潮文庫)

絵のなかの散歩 (新潮文庫)

アマゾンでは1973年刊の”絵の中の散歩”は古書でも見つからなかった。その”絵の中の散歩”のオビで洲之内は言っている。

”絵はもうひとつの人間である。研究よりも売買よりも前に、出会いを大切にしなければならない”

それぞれの単行本の価格を見ると軒並み3000円前後である。中高と”なんちゃって”美術部だった僕ではあるが、多分新刊では手が届かなかったであろう。なにしろ月の小遣いが3000円だったから。当時それでも多いような気がして嬉しかったものだ。だが3000円で、毎月手塚治虫マンガ全集とハヤカワファンタジーシリーズの新刊を買うことにしていたので、手元には殆ど残らなかった。

洲之内の禅味、と勝手に感じる文章に惹かれるのは、1952年、故郷松山を出て大森山王の木造モルタルアパートに住み込むまで、既に芥川賞を2度逃していた、という筆力の所為でもあるだろう。
洲之内は1913年生まれであるので、39歳頃のことか。39歳!もう少し若いときなのかと思ったが。

上で引用したオビの惹句をみても感じられるとおり、単なる美術批評ではない、洲之内の文章を読めば、その絵を”描かざるを得なかった”画家の内面に出会うことになる。

大森!

現在の僕は蒲田に住んでいる。東京の地の利が全くわからなかった頃は、大森といってもなんにもイメージが沸かなかったが、いまは毎日通勤途上で通る駅ではないか。そして同じ区内ではないか!

洲之内は、大森海岸(現大森6の16の5)のアパート「小西荘」に1956年頃引っ越しているという。それからずっとそこに住んだ。43歳ころからか。1962年に3度目となる芥川賞逸賞。49歳。

そのすこし前の1959年、銀座の”現代画廊”の雇われ支配人となる。オーナーは田村泰次郎。戦争時代からの友人で洲之内に上京を薦めた人物でもあるようだ。洲之内の2歳年上の1911年生まれ。48歳のオーナーに46歳の支配人。しかし田村は現代抽象画が趣味であり、洲之内の趣味と必ずしも会わなかったというから、仕事として画廊を経営する面ではいろいろあったのではないだろうか。1961年より田村から引継ぎ、場所も銀座6丁目12-14、松坂屋裏の1924年に建てられた「銀緑舘」の3階へと引っ越す。

実際に行ったわけではないが、多分2005年に建てかえられているようだ。銀座には古いビルがあるようだが、約80年、エレベーターも扉手動式であったようだ。

さて、ついいろいろと洲之内の生涯をつい辿ることになった。2007年にこのMOOKが発刊されて購入したころとは、受け手としての僕の状況が変わった所為でもあるだろう。

洲之内の住んだ地区と同じ区に済み、銀座というところをうろうろすることもある。銀座には画廊が多いことも知った。

1987年10月に洲之内が倒れるまで存在した現代画廊、もしも時間を溯ることができるのであれば、一度は覗きたかった。

約30年の時間を経ての今のこんな思い、もし目の前に洲之内さんがいたのなら、どのように話しかけるのだろうか。



”批評や鑑賞のために絵があるのではない。絵があって、いう言葉もなく見入っているときに絵は絵なのだ。何か気の利いたひと言も言わなければならないものと考えて絵を見る、そういう現代の修正は不幸だ。”(「人魚を見た人」オビ惹句より)



・・話しかける必要はない、のだろう。

彼もまた神の愛でし子か―洲之内徹の生涯

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彼もまた神の愛でし子か―洲之内徹の生涯 (ウェッジ文庫)

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洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵

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芸術随想 しゃれのめす

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芸術随想 おいてけぼり

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洲之内徹文学集成

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棗の木の下 (1966年)

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