今朝は新幹線で名古屋から東京に移動。
少し前に予約できたので、富士山の見える側に席が取れた。
今朝は雲がおおかったが、夏の雲は大好きだ。強い日差しが入道雲に当たると、複雑な色彩が生まれる。雲の間から、光がさしていると、その光に乗って天使が降臨する、というような図柄を想像することがある。
私は宗教、というくくりは苦手である。つまりはそのくくりで日々の様々なことが制限されて、そこから外れると異端である、という外的な面倒な仕組みが宗教である、と理解しているからだ。
一方で”考える”は大好きだ。まあ、たいして深いことは考えていないのだが、先人の考えを足掛かりに、いろいろ考える、というのは楽しいものだ。
絵もそうだ。模写や剽窃になってしまうと、オリジナルとは言えなくなるが、ある絵を見て様々なインスピレーションを得る、というのは積極的に行いたいとさえ思っている。
昔からある様々なテーマ、長いキリスト教文化が生んだ絵、カードやタロット、様々な物語の挿絵(アリスなど)、は観ていて楽しいのと同時に、「ではこのテーマ、自分ならどう描こうか」、と考えてみるのも面白い。
テニエルのアリスは、個人的趣味的には完璧すぎて、これを超えられない、という気がするが、自分流で描いてみるのは楽しくてしかたがない。ギュスターブ・モローのスフィンクスやサロメもそうだ。
絵を描くことと、文章を書くことは、たぶん根っこでつながっている。同じことだ、その表現方法の微細な差異だ、という気がする。歌や詩などもそうだろう。
表現、だ。
なんでもアウトプットを意識してインプットすることは、純粋に楽しんではいないのでは、という気がするものの、一方でそのエッセンスをしっかり見つけて受け止めよう、という必死さにもつながる。
いままでメチャ読んだマンガも、基本自分で描くなら、という意識はどこかであった気がする。
最近日比谷公園の図書館に行くようになった。といっても行ったのは2回だけだが。
毎日会館、日曜以外は10時まで開いているのがありがたい。椅子も快適だ。
やはり千代田区、区への納税が莫大で、こうした文化への投資も十分にできるのだろう。
一方で、名古屋市中川区図書館は耐震工事中で閉館約1年ということだ(一部屋で予約したものを受け取れるのと、返却されたものを借りられるのだが)。
あまり近くに図書館がないので、結構不便である。まあ、天下の千代田区と名古屋市を比べるのは、酷、というものだろうが。。
森博嗣さんがおっしゃっていた。こうした文化的なものは、余裕がないと維持できない、と。そして今の日本は維持が出来なくなってきているのだ、とも。でもそれは仕方がないことだ、いままでそういうものが享受できていたのであれば、それは幸運だった、ということだと。
日本の美術館では作品の撮影は基本禁止である。これは多分、絵葉書や図録販売で利潤を上げないと、展示自体がなりたたないからだろう。そもそも作品を自ら持っているルーブルなどであれば、撮影も模写も入館料もたしかタダである(記憶ですが)。
そう考えると、図書館も美術館も、あるだけでありがたいとも言えるだろう。
さて、図書館で借りている本であるが、
今はミレニアムシリーズの第3部を読んでいる、2008年ころの作品で、もう15年も経っている。だがこうしたサスペンスやミステリーはそうした年代の変化もまた面白く読むことができる。そもそもスウェーデンの作品なので、彼我の感触の差異がまずは面白いのだ。
作者が50歳で急逝したのち、ジャーナリストで配偶者であればいろいろな危険がある、ということで入籍しなかったパートナーと、遺産相続した作者の父親と弟の間で紛争が起きた、ということだ。
その後別の作家が(たぶんパートナーの承諾なく)4作以降を創作しているが、こうした爆発的に売れた作品、というものは、どうしても利権で骨肉の争いが噴出しがちである感じがする。
おもいだすところでは、日本では高倉健氏関係とか。
なかなか難しいところである。
表記の件、アマプラで映像を見るより、やはり紙で読む方が目の疲労は少ない気がする。久しぶりの図書館であるが、本がないとアマプラを観たくなるので、適宜本を借りていきたいと思っている。
(マジで目が疲れます。。。)