夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

本とアマプラとYOUTUBEと。本の終焉を神保町で眺める。その悲しみなどについて。

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紙の本の末期を、この「本の聖地」神保町で眺めている気がしている。

ここは、古本屋に加え、各種巨大出版社の本社(たぶん)が多く存在する。周辺をあるけば巨大出版社以外にも縁の深い(主にマンガ)秋田書店白泉社などの社屋にも出あうのだ。

もはや「出版社」は本を出版するところではなく、「版権管理会社」へとなかば以上変化終了している状況であろう。既に収益は版権(そしてこの時代であるがゆえの軽々と海外から版権収益を得られることもそれに寄与し)からがメイン。電子書籍も頭打ちのようで、文章を読む「本」というものと、コンテンツを得る手段としてのYOUTUBE,アマプラなどのサービス、SNSなどが同レベルで競合する世界となった。

要はどこに「よきコンテンツ」があるか、が本質である。

アマプラも、YOUTUBEも、手段であって本質ではない。

良質なコンテンツが、どこにあり、どのように世間に流布するか、が重要なのだ。

もちろん流布しやすさ、は最大要因である。安い、タダ、アクセスしやすい、手軽、そういった要因と競合すべきとき、

電子書籍は有料であり(図書館の電子書籍の品ぞろえは敢えて言えば”未だ貧弱”)、無料で、広告を必死でクリックしてみる、がデフォルトのYOUTUBEや、500円で映画や番組が(中身を選ばなければ、そしてギガがあれば)無限に見ることができる例えばアマプラのような仕組みに、やはり劣後することになるだろう。

若者が月に本や電子書籍を1冊も読まないのが大半だ、という記事を見たが、考えると当たり前すぎるのだ。

だが、ノスタルジックに語れば、私は本が大好きだ。

まあ、版画などをやっていることもあり、紙製品全般が好きだともいえるが、

本来関係がない、紙、表紙の絵、レイアウト、質感、それが総合的に一体となって醸し出す美、それを所有する喜び、閲覧性の高さ(電源切れたら見られなくなるわけではない、まあ、照明は必要だが)などを考えると、本が本棚に並んでいるとまずはワクワクする。

ハリーポッターに本の中に魂の一部が隠されている、という設定があったやに思うが、ローリング女史も多分本で救われた世代である。本は多量に印刷されるのだが、それでも作者の想いとしての「魂」が、それぞれの本のなかに確かに少し入っている気がする、という意見を、

個人的には持っている。

(古本購入の言い訳ですーーー(笑)(´;ω;`))