AMAZONにて竹西寛子さんの本、「伽羅を焚く」を注文した。
青土社。2430円。
なんというか、買っとかないといけないような気になる本がある。
多くは、たとえばみすず書房の本。あの白い、すべての本がほぼ似たような装丁となっている本たちを見ると、どんな本もある程度レベルが高い本である、という気がしてくるのは不思議なものだ。
電子書籍では、こうした佇まいを感じることは困難だ。手触り、背の部分の色、紙の質。とりあえず書棚から出してめくってみる。そういうことはできないのだ。
なので、確実にきちんとしたことを書く作家である、という信頼が必要である。だがそれだと新しい作家に接することがほぼ困難になる。
そこで新聞の書評などをよむ。一度部屋の本(というかダンボールに入った本たち)を処分した経験は、深く心を傷つけた。知りえたかもしれない知識や世界が、永遠に自らから失われた気がしたからだ。本を買って、多くは積読となる。いつか、「将来の自分」に必要になるかもしれない。この作者のこの装丁のこの雰囲気の本ならきっと。
そう思っていつまでも読まず積み上げられた本が、いつしかダンボールの姿で部屋を占拠するようになっていた。
だがそうした喪失感を、もうまた受けたくはない、という気持ちが芽生えた。いつしか本屋を避けるようになった。
多く本屋の存在を擁護する言説は、セレンディピティ、予期せぬ出会いの機会が失われる、と説く。だが逆である。セレンディピティが多すぎて、本の置き場がなくなるのが問題なのだ。
ダンボールの山が部屋に充満していると、地震の際は押しつぶされる。不幸にしてそうして地震でなくなった方ができると、あきらめて多くを古本屋に持った行った。対価のことは敢えて考えないようにした。もうこれ以上、傷つきたくは、ないではないか。
そんな感じでだいぶ年月が過ぎた。そうはいっても間隙を縫って本はジワジワ増えている。だが体感、前であったら買っていた本を我慢している。
だが昨日書評を読んでしまった。
歌人の梅内美華子が、冒頭に記載した竹西寛子の著書から引用した言葉だ。
この認識を読んで、「こ、これは。。。」と思ってしまうわけだ。
冷静になるために、一晩置く。
今朝、名古屋始発の新幹線で写真にとっておいた書評を読み返す。
評者の梅内美華子はこう続ける。
私は自分がちゃらんぽらんであるからして、他人のちゃらんぽらんさをあまり糾弾しようと思わぬほうだ。立場が違えば私がそうしたかもしれない、と思う要素が少しでもあれば、自分に人を糾弾する権利はない、と思っている。
だが、明らかないい逃ればかりを聞くことが増えると、ああ、この人は大したことは無い、もちろん自分を棚に上げてはならないが。。
という思いを持つことも増えた。
人にものを頼むのが嫌で、頼まれるのも嫌だ。もちろん仕事はその両方を嫌々やることで対価を得る行為だ、と思っているので、頑張るのだが、プライベートでは極力避けている。
だが、すこしずつ、いったいそれでいいのだろうか、と思う事もあった。
年寄りは、固いことばかり言う。自身の経験を「自分のために」美化し正当化している、という臭みがあると、人は聞く耳を持たない。だが、心から相手を心配している場合、相手は結構そのことを感じるものでもあるだろう。
心から相手のことを想う。
著者は広島の生まれで今年93歳、原爆落下時はたまたま体調がわるく自宅にいたため直撃をまぬかれた、という。
その年、その経験でものをいうとき、それはもう「自身のため」などという矮小さからは自由に羽ばたいての意見であるだろう。
拝読せねばならぬのではないか。
一日置いて、新幹線の中で、価格は私にとっても安くはないが、
AMAZONの注文ポチリを行ってしまった。
文庫本になる可能性はたぶん高い。図書館にも入るだろう。
ただ電子書籍化は、失礼ながら版元を拝見して少ない気がした。
であればリアル本か。そう思っていた。
(本の街神保町に住み、新刊書店も三省堂や書泉グランデがあるというのに、アマゾン。。もう体がそうなってしまっているようですね。。。)