夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

真理とは思惟と存在の一致 パルメニデス(井筒俊彦)、そしてトルーマン・カポーティや村上春樹の訳や、ソクラテスの「魂の世話」についてちょびっと考えたことなど。

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クオリティはだめだめでも、とりあえず継続することが力になる。

勝間さんの教えである。

この日記、版画、クオリティはだめだめで心折れそうなこともあるのだが、

インプットばかりだと心から溢れる→結構疲れる、ということが土日家に籠ってアマプラやYOUTUBEばかり見ている時に感じたので、残念な内容でも適宜アウトプットしてゆこうと思っている。

版画もここでは何度か書いているが、3回目の応募となる版画展で選外となった。1回目はコロナで応募者全員掲載、2回目は多分その流れですこしゆるめ、今回は本来のクオリティが求められる場に戻ったのであろう。

この土曜に版画展を実際に見に行ったが、皆さん納得のクオリティで、これはもっと精進したいものだ、と思えたのはよき経験であった。だが妙に義務感やプレッシャーを感じる必要もないだろう。プレッシャーや義務感は、自由な心が必要になる創作に於いて注意して接する必要があるものだ。

今朝の体重64.4kg、体脂肪8.7%。昨日は17000歩ほど歩けた。区営スポーツセンターに行ったが、休館日であった。気を取り直して、家に帰って少しだけ「宅トレ」。超重量は出ないが、ある程度の負荷は得られたと思う。

心は何にもまして偽りを語るものであり、救いがたくねじけたものだ。そんなもののことを、誰が知り得よう。
エレミア記 17章9節 村上春樹訳 トルーマン・カポーティ「遠い声、遠い部屋」 冒頭部引用より
タイトル回収もかねて言えば、思惟と存在の一致が困難であるとパルメニデスは言っているのであろう。

そう、思惟とは「エゴ」であることがあるのである。イコールだとは思わないが、幼少期は自身=エゴで育ち、次第に「育って」行くことで差異が生まれる(こともある)。だが通常は死ぬまで「エゴ=自分」であることが多いだろう。

だが、エゴを見据えた上での「思惟」であれば、自身の「生」=存在、世界のありよう=存在、といったものにも次第に目覚めてくるのだろう。

そこで初めて、稀有な「真理」が垣間見える、ということなのだろう、とこれはあくまで個人的な感想ながら思っている。

そこで「トルーマン・カポーティ」の引用である。

カポーティ自身も引用(聖書からの)であるので、孫引きになるわけだ。

心は何にもまして偽りを語るものであり、救いがたくねじけたものだ。

原典のエレミア記にあたってないので、この語がどんな文脈で語られているのかがわからないのだが、まあ、「心」に対する相当ネガティブな見方である。

そしてここでいう「心」こそ、エゴ、それもだいぶ「こじらせた」エゴのことだろう、と思うわけだ。

ソクラテスが言った「魂の世話」という構え、これもあるいは「エゴ」、泣き叫ぶ幼児のように難儀なものであるが、自身の「中心に近いもの」のことを

きちんと正面からみましょうね、というような理解でも、あるいはいいような気もしているのだ。

(自身の「エゴ」の扱いが、まずはむつかしいですよねーーーー)