夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

体と心をどう整えるか。エゴにいいも悪いもない。

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今日の体重64.8kg、体脂肪9.2%(うろ覚え)。

心の不安はエゴから来るのだろう。
人との比較、「世間での普通はこうだ」、あとは人間関係のトラブル。

これらが大きいだろう。健康や将来への不安もあるが。

それをいったん手放して、「一番下」に潜って心を落ち着かせて、そこから上へ少しずつ心を上げていくのがいいと思っている。

いろいろな情報を得るのもいい。
座禅などもいいだろう。

私見だが、「エゴ」には悪いもいいもない。
基本本体である「私」を「守る」ために動くものだろう。
古来もう一人の私、アルター・エゴなどと表現されてきたものではないだろうか。

よくこの稿で引き合いに出す、宮崎吾郎版「ゲド戦記」でも、「もう一人の自分」は結局自分を害するものではない。最後は一体化する。

この一体化は、エゴの存在を認め、敵視せず、正面からエゴに、あるいは「世界」に、向き合う姿勢が生まれた時のことなのだろう。

気を入れないと「生存」を脅かすことことこそが、「生きる」ことなのだ。なので、いじめられれば怒りか撤退を、人と同じものがなければなんとか受容される水準に自分を持っていこう、とエゴは思う。

いいも悪いもない。

そこで、エゴと起きたことから逃げずに相対することで、初めて「エゴでいいのか」が出てくる。

エゴがいつも悪いわけではない。生きる為の「これまでの経験値の集成」こそがエゴだからだ。

例えば「他人が持っているから欲しい」。

一概に悪いわけではない。自身が同じものを持つためにどうするのか。それを考える契機になる。それが本当に必要なのかを考える契機にもなる。

遠大な目標として、日々の暮らしや取り組みを変えるきっかけにもなる。

だが、あまりにそれに取り込まれたり、ただ集めることが、得ることだけが目標になる「過集中」や「ゆがみ」を自覚しないと、日々は苦しくなり、自身の精神含めた健康を毀損することもおこりうるのだ。

そこに気づくのには、少し時間がかかるのだ。

そこに気づくには、きっかけがあるといいのだ。

 


そんな風に、エゴと付き合えたらと思っている。
だが、気が付くと取り込まれたりしている。

(時計の買いすぎとか。。。(´;ω;`))