夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

リスベート・ツヴェルガー。

1954年、オーストラリア、ウイーン生まれ。1977年、”ふしぎな子”でデビュー。

”物語に絵を描く時、私にとって大切なたったひとつのことはロマンティックであるということです。”
(MOE 2012年7月号 P.41)

時に、繊細ではっとするほどの印象を受けることがある。例えばマルグリット・ユルスナールの短編、”東方綺譚”や、フィオナ・マクラオド”かなしき女王”など。

それらは奇しくも、古い昔の物語がその印象の源泉となっている。

”私自身にもわからないのですが、古い昔の物語にとても執着があるのです。こうした物語が、私の頭のなかでつくりだしてくれるイメージは膨大で、際限がないかのよう”

ツヴェルガーのコメントからも感じることだが、古い物語はそれが物語りの原型として、核として作家の頭の中のイメージの源泉たりうる。そしてそこに定型の型に入れ込もうとする意識(それは例えば出版社からの昔話シリーズの1冊であるとかいうような)がない場合、自由なイメージの飛翔があるときに、物語は繊細で魅力的な新しい物語となる。

”まったく新たな気持ちで物語を読み、詩的な言葉を反芻していくうち、そうした月並みなイメージを忘れることができます。お姫様は黄色いドレスを着て、短く濃い色の髪をしていて、ベッドに横たわっていません。だってお姫様は自分の部屋で眠りに落ちたわけではないのですから。どんなお城を描いてもも自由で、どんな時代だって選ぶことができます。あるいは落書きから、何かを完璧に仕立てることだって。”

彼女の絵本を紐解くときに感じるのは新鮮な驚き、イメージの飛翔と、しかしそれでもそれが”あの物語のあのシーンなのだ”という驚きである。そうか、こんな解釈が可能であり、そしてかけ離れているようですごくしっくりくる。

それは僕に取って、すこしホフマンの絵本を読んでいるときに感じるものと似ている。共通するのは、”媚びていない”ことかもしれない。子供に対するおもねり、これが絵本をいちばんスポイルするものだ。子供は”これは画家が僕らを馬鹿にして描いた本だ”ということがわかる。それは”子供向けに判りやすく”という言い方をされるときだ。残念ながらそうした本は日本では多いように思う。そこでは注意深く過度に綺麗であったり、することが忌諱されている。作り手(出版社を含み)のそんな思惑は、そこそこの部数、手堅い評価を得るには必要なものであるだろう。しかし、読み手の心にひっかかるでもなく、ひっかかり、何十年後にふんわりと思い出して、”あれはなんの本だったのか”と考えるような本、それはそうした本ではない。

もちろん個人的な好みはあっていい。別に趣味を押し付けるものでもない。しかし僕はツヴェルガーの本を読むときにいつもそうした新鮮さを期待して読む。

もう一つのキイワードは”ロマンティックであること”である。例えば昔からのイメージから離れたものを創作するとき、イメージからの離れに主眼を置くと、違いをだすことがテーマとなり、僕にとっての”ロマンティック”がなくなる場合がある。あくまで”僕にとって”だ。だから”前衛的な”取り組みには敬意を表しつつ、僕は注意深く自分の自由時間をそうした物語を読むことで消費することを避ける。僕もなぜか、”ロマンティックであること”が大変大切なのだ。なぜかはわからない。生まれついての”癖”のようなものかもしれない。そしてそうした”ロマンティックであること”を大切にするこの作家の作品は、いつも楽しみなのだ。

まあ、これがいわゆる”個人の趣味”というやつであるのだろう。

リスベート・ツヴェルガーの世界―The World of Imagination

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ノアの箱舟

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アンデルセンの絵本 人魚ひめ

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不思議の国のアリス

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関係はないのだが、表紙に魅かれたので。

雪と珊瑚と

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