夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

”ジジイ殺し”な人たち。

”ジジイ殺し”という言葉がある。

いささか不穏当なコトバかもしれないが、大体は当のジジイ、あるいは”殺されてはいないが、殺されているジジイの近くにいるジジイ、あるいはジジイではあるが自分はまだジジイとは考えていない”ジジイから、ある種の揶揄を含んだ褒めコトバとして発せられるものである。このときの揶揄は”殺人者”に対しては少なく、どちらかというと”殺されていて嬉々としている”当のジジイに向けてより多くなされている点にも要注意だ。

そんなことを思うようになったのは、昨日2人目の”ジジイ殺し”に(本のなかで)出あったからだ。

従来僕の知っている”ジジイ殺し”といえば、池田晶子さんのことであった。そして殺されるジジイの筆頭は埴谷雄高氏である。そのほかにもプラトン哲学で有名な藤沢令夫氏なども殺されている。昨日新たにジジイ殺しとして認識したのは、高峰秀子さんであった。氏の昭和51年の著作、”わたしの渡世日記(上)”を読んで発見した。殺されているのは、広辞苑の編者である新村出氏、その外には梅原龍三郎谷崎潤一郎、などでる。いずれもものすごい有名人ばかりだ。

共通点としては、いずれも”殺人者”が自らの著作の中で、自分がジジイ達を殺していることを、たぶん別のジジイから指摘されたことを、少し誇らしげに報告している点であろうか(そんなところが又、ジジイを殺してしまうのだが!)。そしてこの殺人が素晴らしい(?)点は、殺されたジジイ達が、嬉々として殺され続け、あまつさえより活力を得ていそうである点である。いわば”殺して活かす”活人拳、の様相さえ呈しているところだ。

そして又、ころされるジジイ達は、たぶん海千山千、と世間で評価を得ているツワモノばかりで、この人が、コロリと!と驚きをもって語られる人ばかりだ。ここであるのは、稀有の魂が同じく稀有の魂と出会ってヨロコンでいる姿、そして殺人者が、素晴らしい美人である、というところである。

本当は魂だけでも素晴らしいのだが、さらにその美しさまでも、というのが”被殺人者”たるジジイの気持ちであろうが、くちさがない、というか”程度の低い”世間の目からすればこれはあの有名人がコロリと色香に迷いやがって、という下品な胸なでおろし、がもれなくついており、しかし当の殺人者と被殺人者は、これは”魂のつきあい”だと納得しているので、テン、として基本動じない。そこもまた”ジジイ殺し”の現場の特徴であろう。

これは少し、NHKを10年で退社(主に寿退社や海外移住等が多い)し、今はフリーアナウンサーという肩書きを持つ”どちらかというとアナウンス技術より美貌で有名だった”インタビュアーが、経済雑誌で社長の談話を取っている、というマーケットに擬似的に含まれるニュアンスの本来の姿に似ている。

それは作られた”擬似ジジイ殺し”であるが、それはまたいつかは自分も”殺されて”みたい、と望むジジイ予備軍の羨望のまなざしが計算されているのである。

この殺人は、どうだろうか、今は功成り大家となった”古の優等生”が、少年の頃は恥ずかしくて話せなくて、でも実は恋焦がれて憧れていた”優等生な美少女”に、いまは年月が与えてくれた”厚顔”を武器に楽しく転んでいる、という図である。しかし肉体はすでにジジイである。だからいい言い訳になって、心置きなく殺されていいのである。なんとも贅沢な殺人現場があったものだ。

こうして殺される現場があまり発見されないのは、やはり本当に”知を愛する”魂が稀有であり、本来の意味でのプラトニックラブ、真の意味でのエロース、というものの発現が困難であるためであろう。しかしそうであるがゆえに余計に、そうした”魂のランデブー”は楽しそうなのである。なんともウラヤマシイものである。男子たるもの、こうした被殺人者になること、を目指したいものだ。”さあ!心置きなくコロシテくれい!!”そんな境地がある世界を。

わたしの渡世日記〈上〉 (新潮文庫)

わたしの渡世日記〈上〉 (新潮文庫)

↑子役の高峰さんの魅力が表紙1枚で納得できるのでここで紹介。読んだのは下段。