夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

6月15日  歩き方を変えてみたら、上を向いて歩けるようになった。

昨日は森博嗣さんの「道なき未知」について書いたのだが、国立大(たぶん名古屋大学)の助教授であった森さんが、国立大は残業代が出なくて、庭園鉄道を作る夢の為、あくまでバイトで、売れそうな(別に趣味ではない)小説を書いてみたら小説家になっていた、ということをおっしゃっている。

ここがまずすごい。文系脳であれば、ここまでクリアカットに”バイト”と言い切れないであろう。まがりなりにも自負のあるわが”文系魂”をぶつけて、”よい小説を書こう”などと雑念一杯に思うことだろう。売るためのバイト、と100%振り切ることはできないはずだ。

 

趣味と実益を兼ねることが難しい、ということがわかるところだ。小説好きが小説を書くのであれば、ここで振り切れないに違いない。

森さんは1時間に6000字書ける(キーボードで)。10分ずつ5-6回に分けてかく。そのほかの時間は遊んでいる。小説のことは、考えない。

 

盆も正月もなく、毎日書く。1日1時間は短いかもしれないが、それを淡々と続けることがすごい。いつ完成するかがわかる。長編で2週間という(84000字相当か)。それのゲラチェック。発売するまでのSTEPを淡々とスケジュールに入れる。天変地異の為にも2週間ほど余裕を見る。

 

責任を持つ、とはこういうことだろう。約束したことはどうあっても当たり前に守る。根性ではない、淡々とした日々の作業で。

 

 

凄みを感じる。だが、

 

こういうことは当たり前で、”凄みを感じる”などというのは、自分ができないことを甘えて表現しているだけであろう、と森さんならおっしゃるだろうか。

 

 

さて、一昨日位から歩き方を変えてみたら、上を向いて自然に歩けるようになった。

 

いままでは地面や通り過ぎる人の顔を、見すぎていたなあ、と思った。

 

手の振り、角度、胸を手の振りにより自然に張るような歩きにすると、いちいち対抗者を気にせずとも、空を見て気持ち良く歩けることに気づいた。

 

ことさら相手にぶつかる気はないが、道の真ん中を普通に進んでいる。人の顔や国籍や美醜やらをいちいち見て判断していることが、いかにしんどかったかを感じた。

空を見ていれば、そんなことは関係がない。

 

新緑の樹々の美しさにも気づいた。

 

そして2本線の上を歩いているという意識をもつようにした。

いままではまっすぐ歩こうと思うあまり、1本線であるいていたが。

結構足をぐねって来た。(足首がグキッとなるという意味です)。

 

まあ、2本線でも今朝ぐねったが、それでもぐねることが減るのではないだろうか、と思っている。

 

(樹々を見ることができて、気分が良くなったことはおおきいですね)