夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

創作の妙。

面白いものに理由があると考えていることがそもそも面白くないものしか作れない理由だ。面白いものは、面白いものを発想すれば良い。面白いものを作る手法に則って理由を設定して作ろうとするから面白くなくなる。もし偶然にうまくいったとしても全然新しくない。
ただ無難な「受けそうな」媚びた作品になるだけだ。むしろ、理由がなければ新しいものになる、という手法の方が当たる理由がありそうだ。
森博嗣 「思考」を育てる100の講義 P.53 2013 大和書房

森博嗣さんの文章を読んでいると、まさに「蒙を啓かれる」という感じがする。

制作、創作に関するこの文章にしてもそうだ。

私は版画を制作している。その時に出てくる誘惑は、「人に受けるものを制作しよう」だ。これが良くない。これに従って制作したものは、あとあと自分で見ても、その時のその「媚びた思い」しか浮かんでこない。これは最悪だ。

「模写」はいいが、「模作」はダメである。模写を自身の技術増進のために行うのはよい。かのデューラーも20歳前後でモラトリアムとして芸術の都を漫遊して修行した。

「媚び」がいけないのだ。そう、場合によっては消費されるものとして、媚びは安易な瞬間的な需要を呼びはするだろう。だが、それが長く親しまれるものには多分ならない。

媚びではない、いま「受ける要素」を分析して織り込んだだけだ。

そういう反論もあるだろう。媚びがなければ面白くてすこしは残るのかもしれない。だが「受ける要素」が共通する作品群の中で、突出して古典となるかどうかは、疑問である。

同じく森博嗣さんの「つぶやきのクリーム」から引く(P.181)。

人間にとってもっとも嬉しいのは、自分で自分を褒められる状況に至ることだろう。他者に褒められても嬉しいが、それは他者に褒められる自分を目ざしていたからであって、やはり最終的には自分が自分を褒める。目標はそこにある。

この箇所も膝を叩いて叩きすぎるほどの至言である。

私が版画をやっていて嬉しかったのは、制作した作品を購入いただいたことである。自身の作品が、他者が対価を払ってもよい、という評価を受けたこと。これは本当に嬉しかった。

また、スペインカダケスの国際ミニプリント展に初めて出して、入選したこと。多くの人が入選するのだが、それでも入選作は世界各国の入選作品と共に数か国を巡回展示され、その地の皆さんに御覧いただき、気に入ってもらえば購入いただける。

これも嬉しかったが、その嬉しさは「他人からの評価」であるように思っていた。だがそれは森さんがおっしゃる通り、結局は自分で自分を褒めているのだ。

わかりそうなものだが、わかっていなかった。

そのことを教えて頂いた。

(これが「啓蒙」というものなのですね。。。)