自らを撮影し、それをブログやツイッターに掲載することが流行っている。
またレストラン等で、出された食事を撮影し、同じく掲載することも流行っている。
だが、そうした行為自体に違和感を覚える、という意見もあるようだ。
この違和感、どこから来るのかを考えてみた。
たぶん、両行為とも、すべてではないが大多数の行為の目的に、”自己承認欲求”があることが理由ではないだろうか。
自己承認欲求、とは、読んで字の如く、”他人に自らの行為を承認してもらいたい”と思う心理状況である。
すぐに思いつくのは、メーテルリンクの”青い鳥”。童話の形を借りて伝えたいメッセージは、”幸福は自分の外の世界をいくら探しても無い。幸福は自分自身の中にある。中にしかない”ということではないかと思っている。
自分探し、つまりどこかで、あるいは誰かに、自分のシアワセを”見つけてもらう”他責的意識を戒め、”汝自身を知れ”(ソクラテス)ということに、通じる。
わが池田さんも繰り返しそのことへの戒めを語っておられた。誰に対しても悪くはないが、お前の魂に悪い。
援助交際をする女子高校生に対し、池田さんが発せられたメッセージである。対象となる事象の軽重はあるにしろ、根っこにあるのは同じである。
自分への承認は自分自らがすべきである。
もちろん、カジュアルな精神的スナックとして、お手軽に他人からの承認を得ることは、精神的な高揚を容易に得ることができる。
えらそうに言っているが、このブログや、出版という行為、あるいは自己顕示欲を満たすためにする政治活動などもそうした欲求を満たすため、という要素がある。
そもそも何のためにやるのか、が問題なのであろう。
たとえば自撮り。単純に他人の賞賛を得るためではなく、自らを見つめる、そのための手段としての行為にもなりうるだろう。