夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

危ういバランス。

本日は初出社であった。

 

いつもと同じ通勤路、同じ駅、同じような時間に同じように歩いているのだが、なんとなく駅の空気がしん、としているように感じるのは不思議である。

年があらたまる、という感じを毎年持ってきているが故の感覚なのだろう、と思うのだが、この「リセットする」という感覚は悪くないものだ。

一年の計は元旦にあり、であったか。うろ覚えだが、では元旦になにかしたのか、というと、実家に帰省して、新名神が閉鎖していたり、と運転三昧であった。

今年の正月休みは私の職場では丁度1週間であった。例年より2-3日少ないようなイメージだ。その分、年末は大掃除を積極的にしたり、とあわただしい日々ではあった。そしてやはり「正月くらい」といって、運動せずにそのあたりに出現するお菓子などを食べまくっていた。これで昨日は腹痛を起こした。

餅や小麦粉系のクッキーなど、普段たべないものを正月だから、と食べていた。日々の食事のパターンが決まってきているので、やはり食べなれないものや量により腹痛が起こったのだろうか。

寒いこともあり、運動もしていないので(こういうときこそとは思うのだが)体重を数日測っていなかった。今朝、朝食後に測ってみると、67キロ、体脂肪率11.8%、基礎代謝1608kcalと出た。朝食でたぶん1キロは増えているので、空腹時で66キロくらいだろうか。夏場は63キロを切っていたので、3キロほどアップしているのだが、痩せればそれでいい、というわけではない(場合によっては筋肉がエネルギーとして消費される)ので、まあ、65-66キロあたりで様子を見ようかと思っている。

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グーグルは会社に心理的安全性を求めるという。

このことを聞いて、なぜ私たちが小学校の時に発言しなかったかがわかった。

学校の中に、心理的安全性がなかったため、怯えていたのだ。

これは、動物的な、生き延びるための本能がゆえであった、といえるだろう。

全体的に私達が正直に生きるためには
・好きなことは好き
・嫌いなことは嫌い
と、もっと、自分の感情を認めた上で、空気や同調圧力に負けない、勇気や自己認識や自己肯定感を持っていく必要があります。
勝間和代

学校や会社や、日々の通勤などで、あるいは家の中でも、気が付かず警戒していることを感じるのは、比較的安全だと感じる例えば「風呂のなか」「トイレの中」などである。

個人的な「3上」、といえば、風呂、トイレ、電車、となっている。ここにいるときには、上手くいけば心がリラックスし、自由に動き出して例えばあたらしい画趣が湧いたりする。これは本当に楽しい時間である。

男性である私は、なにかを作り出したいがうまく作り出せない、という気持ちがどこかにあるように思う。これは言い方が難しいのだが、女性で子供がある人であれば、自らがなにかを育む、という気持ちを持つのだろう。男性の場合は似たものはあるのだろうが、自身で生み出した、という感覚は少ない、あるいはないように思う。

なので、日々の暮らしでなにかを生み出したい、というきもちが自身の中にあることに気づいていた。私は事務系の会社員であるので、なにかを作り出す、という行為は(なくはないが)会社生活ではすくないように思っている。小説や漫画を読んでいても、ゲームをしても、自身が生み出している感覚は乏しい。

だが、こうして文章を書いたり、あるいは銅版画を描いたりすると、なにかを生み出した、という感覚が心の底に生まれ、それがたぶんとても嬉しいようである。

勿論人に認めてもらいたい、という承認欲求はある。だがその承認欲求を解体してみると、私の中では「自ら生み出したものを人に認めてもらう=お代を頂く」というものと、「お代はいりませんが認めてもらいたい」というものがあるようだ。

前の意識は、「好きなことを仕事にして稼ぎたい」というものに通じるが、実は今は会社員として勤務しており、「好きなことを仕事にする」というニーズは実はもうないのかもしれない。

であれば、「人に単に認めてほしい」というものが残るのだが、たぶんここでいう「人」には「自分」も入っているのだ。

そして「他人」より、「自分」に認めてもらうことが実は、一番大切で一番満足が行くものではないか、と思っている。

ここで気をつけることは、「できるだけ客観性を持つ」「第3者としての視点をもつ」ことかもしれない。自己満足のレベルが低いと、クォリティの低いものを生み出すことで、満足してしまう。そこでは技術の向上も、その結果生み出されるものの向上も難しいだろう。

「他人とは自分である」という。この言葉にはいろいろな意味があり、誤解を生む要素もある(TOO SPIRITUAL)かもしれないが、上手く意識してゆくととても含蓄のある言葉でもあると思っている。

自分は全であり、一である、という意識へもつながっている。これも誤解を生むことばだが、それを個人で取り込み、自身の認識にしておくことは特に問題がないだろう、と思っている。

他人の評価、というのは、自身の「甘い」評価を軌道修正することができるものだ。もちろんそこに迎合し、媚びてはいけない。ここが難しいのだが。

なんとなくそういう危ういバランスがあるように思っている。

そしてそのような微妙なバランスを意識していくことは、結構エキサイティングでもある、と思っているのだ。

(今年は(も)、この「危ういバランス」を意識してゆきたいと、思っています)