夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

パイドン。

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友 よ、 本当に 知 を 愛し 求める 哲学者 で ある の なら、 こう 考える べき だ。 彼 の 地 以外 では 清浄 な あり方 で 叡智 に 出会う こと は ない と、 その 人 には 強く 思わ れる だろ う から。
プラトン. パイドン~魂について~光文社古典新訳文庫 Kindle の位置No.513-515

 

プラトンの本はきちんと読んだことがなかった。池田晶子さんのソクラテスシリーズはもちろん全て持ってはいるが、本家をなかなか読めなかったのはなぜだろうか。

だが、KINDLEと古典新訳文庫のお陰でこのまえは「饗宴」を読むことができたのだ。引き続き家で発見した「テアイテトス」(ちくま学芸文庫)と同じくKINDLEで「パイドン」を読もうと思っている。

前掲引用は、魂があるという前提のもと、この世界での過ごすときの心構えが書かれている。「ただしくせばならない」からスタートして、義務感で正しくするのはどうか、という反発を経て、場合によっては結局正しさに戻ってくる。

この過程はいわば「守破離」とも似ているし、この世界が邪悪なものである、とみなすグノーシス思想などとも親和性が高い感じだ。

至高の智、真実、イデア。それをやはり人は求めるものだと思う。

だが、人によってそのやり方は様々である。パイドンなどを見るとプラトンは輪廻転生を述べているのだが、ごく自然にその意識が根付く、あるいは知られている大乗仏教あたりの感覚と、いわゆる伝統的カトリックの差はあるだろう。

伝統的キリスト教では輪廻転生を正式には認めていないと聞く。正式、と書いたが私はどのように認識すれば正式となるかはわかっていないが、まあ世俗的政治的、とカナを振ればだいたいのところはあっていよう。

正しい、というか、理想的な神学や宗教は、哲学と地続きなものだ。なので古代ギリシャプラトンが魂を考え、考えるなかで魂が輪廻転生する、と考えることは、現代のように「それは哲学ではない」「宗教的考えと哲学はちがう」という感覚とはだいぶ違うのだろう。

アカデミズムと1000%関係がない私であるので、自由に気ままに考えることができる。プラトンソクラテスに言わせたかった考えも、特段の反発も、違和感もないのである。

おもえば池田さんもそうであったろう。勿論マスコミ俗論の真っただ中で、一輪の百合が如き言葉を投入されているなかで、マスコミであるが故にすこしは言葉に逡巡されることもあったのかもしれない。

だが、真実は一つ、そのことを方便として「哲学の巫女」という形で、伝えやすく気配りをされたのだ、と今もしみじみ思うのだ。

巫女の口からでることばは、巫女のものではない。真実が真実を語るのだ。

そうした機能を果たすことができる人は、歴史上ほとんどいなかったと思う。そのなかで、プラトンが、ソクラテスに語らせたことは、池田さんという巫女の口と同様、真実を伝えるものであったのだろう。

(なくなったあと、これから考えるのはあなたです、というのが池田さんの残された言葉だと思っています。死とはなにか、生とはなにか。魂とはなにか。結局問いはここに帰り、そしてこの問いは問いのままで答え合わせがこの世ではできないわけですが。。)f:id:mamezouya:20230719045252j:image