夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

人に自分をプレゼンする意識について。

昨日は久々の東京出張であった。基本トンボ返りで、14時IN,17時OUTであったが。

新幹線も久しぶり。なんだかわからないが、高速移動しているときに飲酒するとどうも個人的には酔いが深まる感じがある。角ハイボール2杯で今日は凄く残った感じだ。久しぶりの出張で精神が高揚しすぎたのかもしれない。

夏の日の14時という時間はなんというか暑いのだが少しだけMAGICALな時間でもある。日陰で座ればなんというか暑い熱気に包まれているが、例えばそよ風が心地よく、植栽がいい感じで揺れている。

体重は65.1kg、体脂肪率11.2%とちょっとOVER気味。日曜に結構ハードに、そして新しい器具で重量を扱ったためか、普段のトレーニングでは痛くならない部位の痛みが長引く。体が痛められた感じではあるが、この壊れた感じは実は久しぶり。ここから回復することで、パワーアップする気がする部分と、今は免疫とか落ちていそうだ、という両方の感覚がある。

なのでこういうときはあまり無理をせず、休むことにしている。あとは歩き、有酸素運動か。

日日の生活で、自身が人にどう見られるかという意識を、人はすべて持っているものと思いこんでいたのだが、他の方のブログを見ていて、自身が外でどう見えるかを全く気にしていない、という記載を読み、そうか、結構の割合の人がそういう意識を持っているのかもしれない、と思い至った。

ここでの気づきの一つは、自分が普通だと自然に思っていることは、実は全部がそうではないかもしれないという点と、

自分が人にどう見られるかということを、いわばルサンチマンを持って、絶対に意識してやるものか、という感覚があるのではないか、という仮説である。

2番目の仮説は、あるいはルサンチマンではなく、諦念であるかもしれず、より消極的な省エネ気分かもしれないが、根っこは同じだ。

つまり「ひとにどう思われようといいし、むしろ気にすることを憎む」という気分のことだ。

始めは憎悪がスタートであったとしても、そのうち慣れればハビットとなる。習慣化だ。

では、どうすればいいのか。

これはあくまで個人がどうしたいか、に尽きるだろう。

私の感覚は、どちらかというと、人の目を気にすることで、自堕落になりがちな我が精神のよき鞭としたほうが、最終的には広い意味での健康(身体のみならず精神面でも)にいい、というものだ。

だがこれは「健康」を個人的に重要視しているからであり、人によっては健康なんて二の次だ、健康をおしてなにかに邁進する、という姿勢もありうるし、それはそれで尊い面もある、と思っている(一心不乱の集中)。

諦念、も難しいところだ。諦念は楽につながる。もういいや、となると気持ちも楽になる。

そういう意味では、人は自分の精神は自分の好きなようにもっていけばいい。

人からどう見られるのが、どうしても理解できない、という生き方もあるのだろう。

(人は、自由なのですね)