夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

楽しさと自己責任。

今朝の体重64.5kG、体脂肪率8.9%。朝食前。

恵まれた環境とは、生きていくため、教育を受けるため、健康であるためのものであり、それらは社会が備えなければならないものだ。「楽しさ」は、その上に立脚しているものだけど、残念ながら、恵むことはできない。つまり「社会」からもらえるものではない。「他者」から分けてもらえるものでもない。
「自分」の内から生まれるものなのである。
森博嗣 自分探しと楽しさについて P.180 集英社新書 2011年

「時間」とは不思議な概念だ。私の中で振り返ってみても、「過去」と「未来」があり、「今」を順番に消費し、消費したものが「過去」となって残り、「未来」がすこしずつ減ってゆく、というイメージである。

これはごく自然に私の中で芽生えたもので、それが「常識」、というか、「そう考えるべきもの」で「みんながそのように考えているもの」だと思ってきた。

だが最近になってこの考え方は人間が発明したものだ、時間、というものは人間の発明であり考え方だ、という意見を読むようになり、自身のなかに思い込みがあったのかなあ、と考えている。

プラトンのいう「洞窟の比喩」、というと大げさだし、それに合っているのかはわからないのだが、もし、ほとんどの人が「時間」のことを上記のように考えていて、「過去」は「過去」としてある、「未来」も「到達してはいなのだがあると言えばある」ということが普通の考えであるとしたら、この「時間」は単なる考え方だ、そしてあるのは「今」だけ、「今」は一瞬にして永遠である、過去と未来は「今」のなかに含まれるものだ、という考え方を人々に提示すると、皆さんどのように考えるものなのだろうか。

そうなのかもしれないが、今までの考え方とどう違うのか、そんなことになんでこだわっているのか、という反応が来るのだろうか。「今」しかない、というと、「今幸せとはいえないが、将来に希望を持っている」という人は、そんな考え方は聞きたくない、ということもあるかもしれない。

だが、もしそういう「否定的反応」があるのだとしたら、そもそもその否定的感情はどこから発生するのだろうか。

エックハルト・トールなどによると、それは「エゴ」のせい、ということになるだろうか。エゴ、とはルサンチマンであったり、否定的感情であったとしても(もちろん肯定的感情もありうる)、それを足掛かりに、とにかく人間が生きている意味を持つようにする、精神の自己保全機能のこと、と個人的には考えている。

生、とは宇宙の中ではたぶん奇跡的な出来事だ。異星人がいるのかどうかわからないが、居たとしても果たしてこの地球の「生」と同じようなものなのだろうか。

考えてみると「たまたまこの環境で」「生」という状態が生まれたが、「生」の範疇に含まれる状態が、全く同じような条件でしか生まれないとはもちろん限らない。他星では他星の条件があるであろうし、その中ならではの「生のかたち」がもちろんありうる。それがこの「地球の生」とは見た目も、状態もまったく別であったとしても、だ。

そう考えてみると、「生き物」のなかにしかない、となぜか考え込んでいる「精神」が「生き物以外」にもあるのではないか、という「万物霊魂説」(勝手な造語です)が荒唐無稽である、と言い切ることも難しいだろう。もしこの、シャーペンに「意識」に類するものがあっても、それと「交感」する手段がただないがために、そのことを確認できないだけなのだから。

「異星人」というものを考えるときも同じだろう。どこからどこが「生命」で、どこからどこが「生命ではない」のか。その厳然たる境界線は、たぶん、ない。

冒頭の森博嗣氏の文、このあたりの文を読むと、当たり前だけれどもなぜかそう考えていない、思い込み、のようなものを指し示していただいたという気がいつもする。小さな鱗が、気が付くとまなこか心か、心の目にかはわからぬが、すぐにつく。これは日々生きているときにつもる埃とにている。

楽しみ、が社会の基盤の上位にある。自分の力の及ぶ範囲であれば、なにをどのように行っても自由である、という考えてみれば当たり前だが、どうもそう考えていないことを「教えて頂いた」という感じである。なぜか、そう、考えないのだ。

思うに、「楽しみ」とは子供時代には「許可を得てやらせていただく」「無駄なこと」という刷り込みが残っているからだろう。人間に残った魚時代のしっぽのように。

なのでつい、「こそこそ」「怒られないように」「世間様に否定されないように」やろとする。だが、基本的に人に迷惑がかからにようであれば、なにを、どうやってもいいのだ。当たり前なのだが、どうもそう考えていないのだが。

「年甲斐もなく」「無駄金をつかって」「時間の無駄」。そう思われないようにしなければ。

そう思っていたが、考えてみるとそうした「批判」はすべて「他人の目」による批評である。つまり、人に迷惑がかからにように、自身の稼いだ金で楽しんでいる分には、本質的には関係がないことなのだ。

「他人にとっては無駄といわれがちな項目」が「自身にとっては必須で有用」ということはある。むしろ多いのではないだろうか。そして気をつけるべきは、「人は自分ではなく、他人が楽しんでいることに嫉妬する」ということだ。これはいわゆる、「エゴ」の無意識な働きの一つですね。めんどくさいことですが。だが、そもそも「エゴ」は、めんどくさいことがほとんどなのである。

(森さんは、ちょっと考えればわかると思うが、考えていない人がほとんどだ、とおっしゃります。耳がいたいですね)