夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

生きる上での「自由」の重要性とすばらしさとその得難さについて。

昨日の歩数は2000歩強であった。実は家の塗装中で、家をぐるりと飛散防止のカバーで囲って作業をしてもらっていると、なんとなく監視下で生活しているような感覚があり落ち着かない。

死、というものを契機としていわゆる「現世」と「あの世」があるのかどうか、ということを問い、としてぼんやりと持っている。

いわゆる子供時代からある時期までは、「考えてもいいこと」「考えてはいけないこと」というものがなんとなく頭のなかでレッテル付けされていた。森博嗣さんは、「自由である」ことの優先順位を高く持っていらっしゃると思う。気が付くと自然「不自由」を愛する、つまりは「自由からの逃走」、自由であるために払う精神的な負荷を嫌っての多分「エゴ」による思い、それを指さして示していただいている感がある。

池田晶子さんももし子供を持っていたなら、不自由な思いを持たせる事象に意識的となり、絶対自由でありなさい、と教えたことだろう、とおっしゃっていた。読者である私が私たちが、母としての池田さんに教えていただいているのだ、とその時思ったことを想いだす。

両者の教えには共通点がある。

自由であるには、意識的であるべきだ。そうしないとエゴというか、人間の自然なありようでは、不自由である気楽さを選択しがちである、というような。

例えば森さんは、住む場所についてもおっしゃる。人がどこに住むかはヘアスタイルのようなもの、どうすべき、どこに住むべき、はない。たまたま住んでいる、そのことに「意識的」であることで自由でいられる。

私の「不自由の呪い」は「生きるために金を稼げ」であるだろう。これは本能であるだろうか。自身のおかれた状態を自分なりに把握し、この与えられた肉体の条件をも把握したうえで、どのように生きるのが「金を稼ぐ」、すなわち「生きる手段を得る」ことになるのか。

それを意識というより無意識で選択し続けて来た気がする。

むろんこの「与えられた条件」例えば「気質」ができるだけ「楽」になるように。なので「自由」のもと、私はほとんど掃除ができない。

綺麗な空間は大好きだ。だがそれを創出するための手間と時間があるのであれば、それは別のことに使いたい。つまりは何かを創出するための「仕込みと作業のため」に使う、というような。

ジャンルの自由、これも森さんから教わった気がする。自分は漫画家だ、だからマンガは書くがいわゆる「絵」はかかない。

これは「人は住む場所が決まっている」というなんとなくエゴが人に与えがちな条件つけと似ている。そうではないのだ。どのような形態であれ、自らの中から出てくるものを、その時の「気分」で「自由」に表現していいのである。

冒頭でのべた「あの世があるのか」という問い。哲学の問いとは自身の「生涯」の中では多分一生答えを得ることがないであろう、という根源的な問いの下に線を引くことだ、と内田樹さんはおっしゃった。

あの世があるかどうかは、あの世が死したのちに行くかもしれない世界のことだとすると、死するまえにはわからないことのことである。なので「今生」ではわからないことになる。だが、分からないからと言って考えていけない、ということはない。これが自由だ。

昔は死後のことを考えるのは「宗教」の仕事であり、この世で求められている「考えるべき疑問」には昔は入っていたが今は入っていない。そのように感じていた。

これは多分ここ日本で強い磁力を発する考え方であり、いわゆるキリスト教国やイスラム教国なっどではそうではないかもしれない(たんなる推測)。

宗教を人は考えるべきだ、という空気が、多分日本よりカジュアルにあるだろうと思う。

「宗教」とは恐ろしい、ツボを購入させられ、それを欲しくもない他人に売りつけることを強制され、売らないと地獄に落ちると脅される。なによりその宗派に添わない考え方をすることは許されない。宗教裁判の歴史を見るにつけ、そこに取り込まれたものは状況に応じて互いに殺しあう、あるいは殺す。異端裁判や魔女狩りを見よ。

まあそう思ってきた。

だが、そうであるから「死後のことを考えない」のか?「そんなこと考えると怖いからやめときなさい」。

そう、精神が未熟であれば、その未熟さにつけこむ仕組みを持った「邪悪さ」にやられてしまう可能性は確かにあるだろう。あるいは「不幸」による「心の弱まり」へのつけこみ、か。

だがそのことに意識的であることで、「自由」にそうしたことを考えることができる。「取り込まれる仕組み」に自覚的であればいいのだ。

これが「自由であること」のすばらしさだ。精神の中で「私」がただ広い草原に立ち、明るく気持ちの良い風を感じて、「さあ、どこでもすきなところにいっていいよ」と言われている。その感触が「わが自由」である。

そのときそういう声をかけるのは、「真の自分」なのか、仮に輪廻的全や一の仕組みがあるのだとしたら、過去生として「全」の中の一部としていまは在る「過去の自分」の「全」としての呟きと導きなのか。

そこのところはわからないが。

(疑問をとけないものとして把握するだけでもすこし自由が広がりますね)