人類が映像を入手して、100年ちょっとだろうか。映像には多くの情報が含まれている。
人間には、聴覚、触覚、視覚、臭覚、第六感(これは諸知覚の総合的な利用なのかもしれない)などがある。人によってどの知覚から好んで情報を得るかというのは違いがあるだろう。
私は視覚から一番情報を得ていると思う。文章も目で見て読んで、というステップなので、知覚の一種であるが、読んだあと脳内で意味変換が必要なわけであり、ストレートではない。画像から一番情報がはいる気がする。
なんとなくだが、男性は視覚から情報を得る人が多いような気がする。女性の場合は、もちろん視覚からはあるだろうが、もっと複合的(聴覚、触覚も)である気がする。男性・女性で差をつけてものをいうことは、気をつけるべきだろうが、こうした傾向の差は多分あるのだろう。
NHKのTV番組「映像の世紀」ではよくナチスがテーマとなる。映像をナチスはプロパガンダのかなめと位置づけていたし、その認識は正しいだろう。昨日見ていて思ったのは、「人は時代などによって発生した特殊な場に影響され、その結果非道なこともやってしまう」ということだ。「その人自身が非道い人であることはほぼ皆無であり、個人で見ればほとんどが普通の善人、でさえある」。
ナチスしかり、オウムしかり。二つの世界大戦や各地の紛争・戦争で、いわゆる上官の指示にて人は人を殺す必要がある。これは私や皆さんのような普通の人々に起こりうる。
戦後逃げた旧ナチスの高官を捕まえてみると、あまりに普通の人間であることに驚く。「あんな非道いことをした人間は、悪魔の顔を日々さらすものに違いない(たとえ秘匿していても)」と思って接すると、その落差に驚くとともに、不安になる。
その不安とは、「その場にいればあれは私であったかもしれない」だろう。
罪なき者のみ石を投げよ。
イエスにそう言われれば、誰も投げることはできない。
軍隊に入り、上官に言われれは、私も殺すだろう。
それは、メメント・モリ、死を想え、という言葉とにた意味で、
罪を思え、とでもいえるかもしれない。
ただ「たまたまその場にいなかった幸運」を喜びつつ、自身は石を投げられるだろうか、と自問することになる。
(映像は、過去のその場にいた人々の、本音、魂の叫び、みたいなものが見えてしまいますね。。。)