夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

タイムマシンに乗りたいか?

タイムマシンに乗りたいか?

 

そんなお題があるだろう

自身はどうか。考えてみた。

 

・・・乗りたくないかな。。

 

いろいろな人のご意見などを、主に文章になっているものを見ると、

「あのグチャグチャの青少年時代に戻りたくない。」

とおっしゃる方が意外と多いイメージだ。

 

なんとなく、

「いやあそこでの選択は失敗したと思っている。」

「あそこでこうして居たら・・。」

 

と思っているのが普通なのかと思っていたのだが。

 

どうもそういう意見ばかりではないようだ。

 

今がベスト、というわけではもちろんない。

ベターか、ワーストかはわからない。

 

でもまあ、あるがままできたなあ。

 

皆さん結構そう思っているのかもしれない。

 

まえに見た新聞のコラムで、女性を「お嬢さん」と(コラムで)呼びかる姿に、偽善を感じた、のだが、これはもしかすると「疾風怒濤」のギラギラ時代に忘我没入めっちゃした人だから、こう天下の新聞で堂々と「私はもう女性をみても「お嬢さん」と呼んで距離をおけるんですよ」と喜々として宣言できるのかもしれない、と思い至った。

恥ずかしさに、どっぷりつかった。だからもういい、というやつだ。

そこに偽善を見るか、進化を見るか、というのは、やはりその人その人がたどった経験によるものだろうと思う。

昔聞いたことばに、若い時に遊んだひとは年取って落ち着くものだ、というものがあった。今もあまりそういう例を回りに感じることはないのだが、そういう面もないことはないのだろう。それは多分、老化や衰えに対する積極的あるいは消極的な諦念、が関係しているのかもしれない。

タイムマシンで過去を変える、というテーマは、よく小説で見る。だが、「過去」が「過去」として別の世界に残っている、という考えは、直感的には違う気がする。いや、そうであれば面白いな、とは思うのだけど。

本質的に、「独立した過去はない」と思う。「過去は現在に内包されている」と思うのだ。

なので、そもそも「タイムマシンに乗りたいか」という質問自体が、なんらかのドクサを含んでいる気がする。仮定であっても、タイムマシンがありうる、と思う気持ち自体の、脆さ、のようなものも感じるのだ。

(まあ、ドラえもんを見ると、タイムマシンは身近すぎる概念ではありますが。。)