前後ありといえども前後際断せり
1週間ほど出張のこととなった。
アメリカへゆくのは、初めてだ。
バインダーにメモのように日記のように書くようになってどれくらいが経つのか。
2006年の11月に英国とオランダに行った時のメモをみた。
この頃は池田さんがご存命であり、飛行機の中で週刊新潮を読み、それは白川静さんのご逝去に関する項であった。
そこで僕は一つの盗みをした。
週刊新潮の池田さんのページのみ、破いてしまったのだ。
そのことで週刊新潮をそのあと手に取った乗客が、池田さんのコラムを読めなくなる。
そのことと、
僕が旅先で折に触れそのコラムを読み、考えるのと、
どちらが重要なのかはこの宇宙のなかでわからないが、
とかく全ては巡り合わせ。魂は刻一刻と変化し、流れる。
ほら、こうしてパソコンで文章を打っても。
昨日人と出会い、語らったことも。
そのことが全て、記憶しているかどうかは関係なく、
僕の、宇宙の、魂を変えてゆく。
人の細胞が、刻一刻と変化するように。
行く川の流れが同じように見えて違うように。
ねがわくば善きことを魂に刻んで行きたいものだ。
ねがわくば、得がたい喜びを魂に刻んで行きたいものだ。
そうして、この体での旅が終わる時、魂がこの肉体に留まることを得なくなるとき、
抱いた魂が出来るだけ善きものに変わった旅であった、人生であったと、
思いたいものだ。
やりかたやハウツーなんてない。
前回持って行った本。池田晶子”魂を考える”。小林秀雄”無常ということ”。南直哉”やさしい「禅」入門”。
似たような本を持っていこうとしている。
池田晶子”REMARK"。そしてなんとなく気分で、”ヨーロッパ退屈日記”。伊丹十三。
池田さんの1998年6月12日の項。
自分のためにする
他人のためにする
同じことではないか
他人とは自分における他人である
しかし逆は言えない
REMARK(旧版)p.59
他人とは自分における他人。他人は自分。自分がなければ他人はない。
行って、巡って、還ってくる。
では他人とはなにか。
自分、なのだろうが、すこし違う肌触りもある。
他人と関わる、とは。
ほら、池田さんの本を読んでいると退屈しない。飛行機に乗っているこの体と魂が、どこにいようと”考える”、にふらりと漂い出る。
古い石版に書かれた太古の文字、と同じ肌触りの言葉たち。
そして、同じく”難解なる魂”の持ち主である伊丹十三。ひねくれて、一回行って、還ってきたような魂。
その若々しい魂がヨオロッパに出かけ、どう化学反応したのか。
それを米国にて考えよう、
というのが今回の趣旨です。
- 作者: 池田晶子
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2001/02
- メディア: 単行本
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