心と体はつながっているので「元気が出ない」「希望が持てない」というときは、メンタルでなんとかしようとするのではなく、まずは動いてみる。
仕事のクオリティを高めたいなら、「実力をつける」より「今の実力を出し切ること」に意識を向けるほうが圧倒的に近道。
小林弘幸 「整える習慣」より
人は、なにかが出来ないとき、エゴによってできない自分を直視したくない→将来できるようになる、という”言い訳”を自己に認めることにより、できない自分を直視せず、残念な気持ちを慰撫し、目をそらせるようになる。 なので、”将来できるようになる”という気持ちは注意して扱う必要があるだろう。
新しいことに取り組むきっかけにはなる。言い訳であることを直視し、残念さを素直に受け止めたうえで、さらにその残念さを再び感じることがない、ということを目標に、きっかけとして”将来できるようになる”と考えて、実際に取り組むことができれば、いい。
だが”将来できるようになる”という言い訳でおわり、エゴの慰撫に留まり、進歩につながらないのなら、”いつかできるようになる”と思わないほうがいい。 そのことを小林氏は言っているのだろう。
人はエゴにより、進歩のない言い訳にとどまりがちなので、それよりは”「今の実力を出し切ること」に意識を向ける”べきである、とおっしゃるのだ。
今の実力を出し切る、という意識には、言い訳が含まれていない。このことは、”時”を言い訳にして、昔こうだった、将来こうしたい、と逃げるのではなく、今だ、今しかない、と思うこととつながっている。
言い訳とは逃げである。やらないことを正当化するものである。
やらねばならないのだ。やらねばならない、という事実から逃げてはいけないのだ。その時の気持ちの最適解は、”今の実力しかない””それを最大限に生かす”という決意と踏ん切りだろう。
泣いても笑っても身一つ、の諦念から、やけっぱちの起死回生が生まれる。
それが、”実力”だ。
冒頭の言葉、”元気が出なければまず動いてみる”もおんなじ系列だ。
だれかに、世間に、政府に、政治に、状況に、世界に、元気にしてもらいたのか。
それは甘えであり、自分の人生を他人事とする態度だ。自責ではない。
できること。ここに与えられた身体がある。それを使って活動をしてみる。そこで”体の中にある気持ちがどう変化するか観察してみる”。
なんらかの動きがあるだろう。無くても、じっとしていて固まった関節が緩む。筋肉の活動で、血液が循環する。生物として、活動的になる。そこで気持ちもひっぱられずにはおれるだろうか。いられないのだ。
徹底的に自分事にすることを意識すべきなのだ。 エゴは物事をひとごとにする。そのほうが”生物としての自分が楽”という仮説を採用しているからだ。
気をつけねばならない。エゴとは自分とほとんど一体になっている。ゲド戦記風に言えば”一生気づかない自己のふたり身”ともいえる。 これを引きずり出し、客観的に見つめるとで、エゴとは和解できるのではないか。
よきエゴは、多分自分の味方になる。 そんなことも、ル・グインは伝えようとしているのでは、ないだろうか。
→最後、唐突にゲド戦記のことを思いだして、自分でも驚きました。