夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

「ロシュフォールの恋人たち」を見た。

昨日「ロシュフォールの恋人たち」を見た。

【公開】 1967年(フランス)

 【原題】 Les Demoiselles de Rochefort 

【監督】 ジャック・ドゥミ 

【キャスト】 カトリーヌ・ドヌーヴフランソワーズ・ドルレアックジーン・ケリー、ジョージ・チャキリス、ジャック・ペラン、ダニエル・ダリューミシェル・ピコリ 

 

私は今まで映画をあまり見ていない。映画史にも詳しくない。それぞれの映画が、どのような思いで作られ、どのように時代に受け入れられたのか、という知識がない。

 

だが、映画を見ると気になってくる。ジャック・ドュミ監督の作品は、一昨日見終わった”シェルブールの雨傘”とこの”ロシュフォールの恋人たち”の2本だけ、両方とも有名なようだが初見、どちらもミュージカルで有名だが無音で見ている。

 

いろいろとネットで見ていると、ドュミ監督は1931年生まれ、1960年に長編第一作の”ローラ”を製作、”シェルブールの雨傘”の公開は1964年、この作品はカンヌ国際映画祭パルム・ドールを獲得している。そして続いて1967年にこの”ロシュフォールの恋人たち”を製作している。

 

映画監督は、出来合いのシナリオをベースに監督を引き受けるパターンが多いように思うが、見ている感じでは、デュミ監督の場合は独自の世界観でもって自身の世界を自ら脚本も書いて作り上げている。

 

各映画の登場人物は共通である場合が多く(スケジュールやギャラ等でずっと同じ俳優を使い続けるのは困難であったようだが)、これは例えば手塚治虫なども自身のキャラをいわば手塚プロダクションの俳優のように別の作品に何度も役柄を変えて登場させているのと、(行っていることは違うが)同じような世界観であるだろう。つまりは自身が自身の世界のコンダクターであり、創造主であるのだ。いわば当たり前かもしれないが、自分の世界構築を大切に思っているタイプのクリエーターなのだろう。

 

シェルブール”と”ロシュフォール”は主人公が同じカトリーヌ・ドヌーヴによって演じられているのでややこしいが、別のキャラとして設定されている。では両世界が完全に別物かというと、踊り子のローラが切り刻まれて惨殺された、というニュースが同監督にとっての初長編である”ローラ”と(完全ではないにしろ)リンクしている。自らの内にある世界を、順に作品として現出していこう、という作家性を強く感じるところだ。

 

見る前のイメージは、”シェルブール”の方はどちらかというと甘めのラブストーリーかと思っていた。だがどうも感触が違う。全編歌によるセリフ回しであるこの映画を、無声で見た所為もあるかもしれないが、前日描いたような疑問点を感じた。つまりはこれはいわば”ハッピーの毛皮を被ったアンハッピーな映画”だ、と思ったのだ。名作としていままで残っているのは、逆にそうした苦さ、”あなたがいなければ死んでしまう”と何度もいうヒロインに、死ぬどころか恋人の子を身ごもりつつ母の望む安定した結婚を選ばせる、そして”戦争のせいで”娘は恋人を待つこともなく、恋人が戦争で死んだわけでもないのに、身ごもりつつ別の男に嫁ぐ、そんな愛の残酷さを観客にジワリと見せつける(それもミュージカルの楽しい歌声と共に)、そんなところがある。ドュミ監督は、この映画について何度も“反戦映画だ”と言ったという。この映画のもともとの副題は”不貞”であったともいう。

 

それを知って、大変納得した。

 

日本という国での受け止めは、どうだったのだろう。フランス、ヌーベルバーグ。その複雑さが愛されていたのかもしれないが、ミュージカルという見た目、そして普通なかなかこの極東の住民には知識が得られない当時のフランスが抱えていた”アルジェリア内戦(アルジェリア独立戦争)”、徴兵制、といった苦い要素が、幼少時よりオペラや人形劇、”やぶにらみの暴君”という名作を生んだアニメ制作会社(ポール・グリモーの主宰するレ・ジェモオ社)に入ることも当初考えていたというドュミ監督の様式美や美意識に隠れて、しっかりと理解されていなかったのではないだろうか。いや、理解せねばならないわけではないのだが。

 

勿論映画は個人が自由に見るものだ。重くみるのか、軽くみるのか、自由である。だがどうにも私には”スパイスの効いたお洒落なフランスミュージカル映画”としてこの作品を見ることができないのだ。

 

この暗さは、一見底抜けに能天気にも見える”ロシュフォールの恋人たち”でもぬぐいがたく感じる。一件明るいのに、見終わったあと残るなんだかよくわからない苦み。この苦みを描きたくて、そして多くの人に”とっつきやすいミュージカルの外見”でごまかしつつ、反戦あるいは愛の不合理、そして人生とはといった重苦しいテーマを伝えよう、とドュミ監督は企んでいるように感じるのだ。ごまかし、とは言いすぎかもしれない。多分監督はそういう”外見”をも、とても愛していただろうし、自身から自然にあふれるもの、とも思っていたのだろう。後年亡くなって妻である映画監督アニエス・ヴァルダが作った幼年期のデュミを描いた”ジャック・ドュミの少年期”を見ていてもそう思う。

 

ご覧になっていない方は注意頂きたいが、最後の場面、双子とその母親はそれぞれの”運命の相手”に無事巡り合ったように見える。実際にそういう結末である。だがドュミ監督は後のインタビューで語ったという。ドヌーヴ演じる双子の妹(実質主人公といえよう)の乗ったトラックにいままで見事にすれ違っていた”運命の相手”がヒッチハイクで乗ってくるシーン。本編では無事トラックに乗って観客はほっと一息、大安心の大団円、というところなのだが、監督はもともと彼をそのトラックで轢き殺そう、と考えていたという。

 

監督がそれを行いたい、という意味は凄くわかる。だが、興行を考えるとそれでは映画が”暗黒のトラウマ映画”になってしまう。

 

シェルブール”の成功を受けて、資金調達した本作で、興行や今後の製作を考えれば、そのシーンはやはりハッピーエンドにせざるを得なかったのであろう。

 

だがそのあとにドュミ監督が第一長編”ローラ”の後日譚としてアメリカで作った”モデル・ショップ”も、内容的にベトナム戦争に絡んだ内容で、明るいとは言えず、興行的には難しかったようだ。

 

ロシュフォール”で一見悩んだのは、双子の祖父となる人物の戦友である黒メガネで恰幅の良い紳士、デュトル氏の位置づけである。”シェルブール”のヒロインであるドヌーヴは、この映画では双子の妹役で別の人格である。だが映画の3/4位の時点で全員で双子の母が営むカフェで夜会食をしているときに、カフェの常連でもあるデュトル氏が中途登場する。双子には初対面だというデュトルだが、シェルブールに居たとき、ドヌーヴに会った気がする、といい、”他人の空似かな”という。

 

これは明らかに2作がつながっていること、別の役で同じ女優が出ている、ということを無理やりつなげようとする布石である。

 

なぜ無理にそんなことをするのか。

 

丁度ケーキを切ろうとしていた時だったので、母親は氏にケーキを切ってくださいな、と頼む。あとからこのシーンを見直すと、少し肝が冷える、という趣向かもしれない。つまりはこの会話である。

 

母:ケーキを切って下さいな

デュドル:どう切る?(妙に満面の笑顔)

母:あなた流に

デュドル:ご希望とあらば(ニヤニヤ)

そしてケーキを切り終えてドヌーヴに渡しつつ氏はいうのだ。

”やっぱり会ってる”

ドヌーヴは苛ついて答える。

”やめて、くどいわ”

 


どうだろう、この違和感。この演出。ドヌーヴはシェルブールでは別の役、観客はわかっている。だが敢えて同じ人物であることを示しつつ、ドヌーヴに苛つかせている。このシーンは“神話的”あるいは”2つの連続していそうで別である世界の橋渡しをするためのだいぶん無理をした演出”と言えよう。ドヌーヴの苛つきは、無理やり2つの世界を関連付けようとする監督自身が、自らに放つ突っ込みのようにも感じる。この流れでは普通ドヌーヴは苛つかない。実は”神話的に””映画的に”同じ人間が別の役をやっている、という楽屋裏を、無理やり映画本体につなげるための、違和感を抱かせるための、”苛つき”だ。

 

”違う役なのよ””劇であることがばれるじゃないの、監督”だ。

 

主人公格の2名の男性が、シェルブールトロール船を降りて彷徨っていた過去を語ると、デュドルは言う。

 

シェルブールの床屋を知ってる。名前はエメ””デノワイエ夫人と結婚した”

 

ドュミ監督の母は床屋をしていた。そして「デノワイエ夫人」は、たしか第1作”ローラ”の登場人物だ。

 

”彼女は未亡人だったが、かつて踊り子だった子供がいた”

これが、ローラだろう。デノワイエ夫人はローラの母だ。

周囲の反応はない。デュドルはいう”ナント生まれだ”。子供は言う”アイスを買って”

母親はため息をついて言う。”盛り上がらない夜ね”

そう、監督もナントの生まれだ。

 


今までにドュミ監督の作品を見ていない観客(つまり私だ)にはなんのことかわからない。わからないシーンを無理やり割り込ませている監督が、自身が紡ぐサーガの一つのお話であるこの”ロシュフォール”を、観客にもそのことを伝えたくて挿入しつつも、”なんのことかわからない観客の皆さん、すみません”ということで、この母親のセリフであやまっているのだろう。

 

だが自身の映画製作とは、自らの中で紡がれるのを待つつながった神話的ストーリーの、順々の発出であるところのこのドュミ監督は、母親にこんなセリフを言わせつつも、無理やり各物語を接続させずにはいられないのである。

 

さて、この会食の翌日、双子姉妹は急遽町の祭りに駆り出され、大評判、姉妹はそのまま一座のトラックでパリへ行って一旗揚げよう、ということになる。母親は”そう、頑張ってらしゃい”だ。このあたり、成人した子どもにフランス人は干渉しない、ということだろうか。

 

ここで主人公格の男性2人をカフェで迎えた母は、昨日の祭りの記事が出た地方新聞を手に取る。双子は一面で大きく報じられている。”双子姉妹は殿堂入り”。

 

母親は考える。”何のこと?”男性陣2人も首をかしげる。”さっぱりわからない”

 

私もわからない。これもなんらかの形で”デュミ世界”を順番に見ている人にはわかるのだろう。この点は今後研究してみよう。

 

そして新聞をめくった男性陣は驚く。”デュトルだ”。

 

昨日皆で一緒に食事をしたデュトルが、大きな写真入りで出ている。

 

”殺人犯の自宅で凶器発見”

 

ここからの登場人物の反応で、この物語が”神話”であることがわかる。

 

母は驚き、新聞を受け取っていう。”彼だわ””(名前に)Zが抜けてるから怒るわ”

 

とこう来た。違和感が広がる。仮にも父親の戦友で、昨日も一緒に食事をした人物が、殺人犯だとわかったのに、この反応か!!??

 

そして男性陣の反応もそれに呼応している。にっこりして語り合う。

 

”死刑でなけりゃね”

 

にこにこしてそれ以上の反応はなく、”ホテルに戻って荷造りだ”ときた。

 

まったくこのニュースに反応なしだ。いや、皆さんいいんですか?昨日一緒に食事した皆さんの知り合いですよ。お母さんのお父さんの戦友ですよ??

 

母親がいう。”ケーキを切る時、ためらってたわ”

 

男性陣曰く、“殺人鬼め”

 


なんじゃ、これ??

 

意味が分からない、わからないのだが今日2回目見て、上記文章を書きながら仮説を立てた。

 

このシーンを見た観客は、全員が違和感を感じるだろう。そしてその違和感から悟るのである。”この物語は現実を描こうという話ではない”。

 

つまりは”神話”であり、”寓話”であるのだ。殺人がごく普通のこととして語られる”おとぎ話”であり”赤ずきん”であり、”ロバと王女”なのだ(監督は寓話”ロバと王女”をこのあと制作し、好評を得ている)。

 

そのことを、監督は敢えて観客に仁義を切ろうとしているのだ。

 

男性陣を見送って母親はそれほど深刻ではなさげにため息をついて言う。

 

”物騒な世の中ね”

”デュトル・・・恐ろしい男”

 

さいごまで違和感満載の演出だ。知り合いが殺人を犯したのに、その男がバラバラ殺人を行ったのちに会って、ケーキを切ってもらったのにだ。全く自分事にしていない。普通であればパニックだろう。”昨日ケーキを切った手で、その前に人体をバラバラにしていたのよっ!!!!!!!!!!”という反応が普通だろう。フランスでは違うのだろうか。

 

多分、デュトルは、別の物語(ローラやシェルブールの世界)から、厚かましくも、そして監督が諸作品がつながっていることを示したいがため、無理やりこの世界に闖入した別次元の人物、という設定なのだろう。それをこちらの世界の住人は(頭ではなく)直感でわかっている。だから冷たく接するのだ。所詮は別世界のもの。人間とも思えない。そんな感じだろうか。

 

最後に近いところ、ドヌーヴが未だ一度も巡り合わない”運命の兵隊”マクサンスが、除隊となって母のカフェに寄る。政情不安の中除隊になるとは思っていなかったという母に対し、マクサンスは言う。

 

”デュトルみたいに悲観的だね”

 

お、来た、と母は新聞を見せる。ここからまた、寓話度が高まる。

 

”これ見て””殺人犯よ”

”40年間愛し続けた女にフラれたの””カッときてメッタ切りにしたってワケ”

 

マクサンスは言う。”情痴事件か”そして笑う、はっはっは。

”デュトルがね”

 

ほら、よりよく知っているマクサンスさえこの反応。寓話でなければなんなのか。リアリティを敢えて、極力排そうとしている演出としか思えない。

 

まあ、もともと町のあちこちで、町民全員が歌い踊っているわけで、リアリティなどはないわけであるが。。

 

バラバラ事件自体は、前述の会食の前に新聞に出ている。つまりはデュトルが会食に参加したのは、殺人のあと、というわけだ。

 

”フォリー・ベルジュールで一番の踊り子だった”"名花ローラ・ローラはすでに60歳””犯人は手足を並べるのが趣味みたい”

 

話が前後するが、マクサンスはもともと母にカフェでこの事件を聞いて、現場に見にゆき、そこで双子の姉、赤毛のソランジュと出会っている。

 

画家であるマクサンスは、兵役で絵を描けないが、除隊になればパリで絵を描こうと夢見ている。シェルブールではギィは兵役で恋人と引き裂かれたが、今作では“政情不安で””除隊は無理だろう”と思っていた双子の母親の予想に反して除隊が叶い、最後の最後で(監督にも殺されず)理想の相手が乗るトラックに拾われる。

 

ギィとマクサンス、ドュミ監督が2つの愛の寓話に配した2人の男神は、まるでネガとポジのように自身の愛を見つけるのだ。

 

(殿堂入り、の意味はほんとわかりませんが、もしかすると双子の話は今作で終了、という意味かも。ローラの話は何作も引っ張ったのですが、という意味かな、とちょっと思いました)

 

 

 

 

 

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