夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

不安でいることが安心につながる。真の「消極的やらされ開国」は近い。

日本人は不安を感じる遺伝子が、世界人類一般と比して高いという。

なるほどこれは実感がある。

ということは。

 

「不安でいると安心する」

 

つまりは、「みんなが不安になっている状態がデフォルト」であり、そんな状態こそが「世間」であり「人生だ」と感じるわけである。

遺伝子なので、根拠なく不安になってもいいし、理由はよくわからなくてもいい。不安になる要素をいつも探している、という感覚さえある。

そして「不安になる」と、「バタフライ・エフェクト」により「表面的に困ったことが日本世間で起きても、みんなの”不安だ、日々対策対応しよう”という不安顔を見ていると、そのことで世間はジワリと好転してゆく、すくなくとも悪化のスピードが抑えられる」ということを、なんとなく経験値としてそれが唯一のこの国が動く動き方である、と感じている。

そして、このことは経験値であることでわかる通り、多分「残念な真実」なのだ。すくなくとも、日本国内に限り、今までの状況では。

私は、政治にあまり関心がない。政治家というものが「基本自分が選挙に通るためのことをいやいやでもやらざるを得ない人々である」と感じるからである。

そのことで特に政治家がいかん、とは思わない。むしろ当たり前、自身の「生業」として、特に「世襲」で先祖からの仕事として政治家となる人が多いこの国では、仕事を失う=路頭に迷う、ことはいやだろうな、という理解が出てくるところだからだ。

つまりは「立場が違えば、私もそうするだろう」と思うわけだ。

しかし、そうなると、バーターで、「そんな人たちがやることをあまり信用するわけにはいかないな」という気持ちもある。

これは「先生」に対しても同じである。「聖職」という言い方があるが、そこには「自身のみのことで仕事をしているのではなく、教え子のために比重をかけている」「稀有な=普通の人はなかなかできない境地にいる」「素晴らしい人々だ」という幻想があり、その幻想を「多分無理だろうな」と思いつつ信用したいので信用する、という心の働きがある。

「政治家」に対しては、聖職、というような甘い幻想はそもそもあまりないが、そうではあっても自分を捨てて国のためを考えている人がすこしはいてほしい、という気持ちも、ある。

しかしながら、「自分のことを棚に上げて、人に無理を望むのはあつかましい」という感じもある。自分に無理なのに、人に望むなよ、という。

そこで、「不安」が登場する。世間が、みんなが、不安になれば、その不安を感じた「世襲政治家」がその不安を解消するために、動くだろう、というわけだ。

つまりは「ペシミズム」だ。期待していないが、(立場が違えば私がそこにいたかもしれない、私によく似た)そのような人たちをうまく動かす(私が動く、といってもいい)には「ペシミズム」がいい、という「残念な経験値からの知恵」がある。

 

古代ギリシャでは、政治家をくじで決めた、ということをどこかで読んだ気がする(本当かどうかは不明)。

だがこれは慧眼というか、残念な真実であり、結局誰を選んでもそれほどはかわらない、という奴だ。

日本だけではなく、結局は集団で生活する「ヒト種」のデフォルトなのかもしれない。

もうすこし「ましな境地」に世間が行く可能性がある。

「みんなが、責任を負わざるを得ない」という「諦念」に至った時だろう。

つまりはこのグローバル社会、もはや海で島国の中で完結しきれない、と日本人が諦めた時である。

まずは「人口減」「高齢化による若年層の減少」がもたらす、「この国はもうあきらめて真の開国をするしかない」と皆さんが不安になるときだ。

「なしくずし」こそが唯一の手段である(手段とも言えない面があるが)この国で、諦めこそが一番世間を動かすのだ。

そしてその臨界点は、結構それほど先ではない、気がしている。

(「心の」そして「真の」開国は近い、ということでしょうか。海に守られてきたわが国ですが、WEBによりその「お堀」が効かなくなってきたことが一番の理由ですね、たぶん。。。)