夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

しがらみを見据えてできるだけそこから自由になること。

自分がやりたくてもやれないことが金銭的な選択で出てきますと、その影響を少しずつ体へ心が受けるようになります。あるいは日々の生活の中でお金がないから、何か困ったことがあったらどうしようと何となく思ってるということについては、意外とこれは負担になります。

勝間和代

安心こそはこの人生で一番欲しくなるものかもしれない。

総務関係の仕事がだいぶ長くなった。冠婚葬祭、上局の親族になにかあれば駆け付ける。そのために四六時中会社携帯を持ち歩く、ということが長く続いた。

休日でも電話があるかも、と思っていることは、一部仕事をしているといことになるだろう。完全に休むということが精神の面ではできない。

冒頭で引用した勝間和代さんの文でも、勝間さんはいわゆる日々必要な金の心配や、住宅ローンを借りている、といった事柄は、脳のメモリーを普段から結構喰っている、ということをおっしゃったが、これは改めてそう指摘していただくと、本当にその通りだ、と感じるところである。

仕事だから当たり前、と思ってきた。社会人ならローンや生命保険を掛けるものだ、とも思ってきた。

それは多分思い込みであったのだ。

今の時代は、ローンや保険といったものをとらえ直す雰囲気もある。いろいろな前提条件や社会のルールだと思っていたものが瓦解して久しい。

正社員、という立場はある程度将来の生活費を保証しているように思われる立場である。景気によって雇用が左右される立場というのは、安心を心に生むことは難しい。

勿論会社は長命であるとはかぎらない。予定外で様々なことが起こる。

だが今この瞬間の気持ちとしては、「わからないながら安心である」「わからなくて不安である」の両者はとてつもなく違う境地だ。

人は生物である。生物はDNAで生き延びることを自然といの一番に望むものだ。そのためには、あらゆることを行う。

やりたいことを無心に、安心してできることが人間という生き物が一番欲するものだろう。無心、というところが難しい。

人に与えられている立場であれば、どこかに雑味が混じる。心と身体の伸びやかな自由が必要だ。

古来からある坐禅、最近出てきたマインドフルネスといった手法は、とりあえずは宙ぶらりんで気持ちが落ち着くことがふつうない普通人の心を、ある意味無理やり無心に追い込むテクニックでもあるのだろう。

(一時自己流ながら坐禅に凝ったこともありましたね。。)