勝間和代さんのメールを見ていて、
運動などがわかりやすいのですが、自分で運動するのと人の運動を見るのでは、明らかに人の運動を見る方がずっと楽なのです、しかしどちらの方が主体的かというというまでもないことですが、自分で運動をする方です。
という文章と出会った。
私は高校卒業までTVは8時までと言われており、これはある意味ではトレンドの話題にはついていけないことになるわけである。
だが、そのことで長く飢餓感があり、その飢餓感を糧に結局だらだら受け身で情報を入れる、というよりは、自ら興味のあることを探しに行く、ということを教えて貰えた気がしている。
8時が過ぎれば、洋楽を聞く。マンガを読む。小説を読む。
これである。別に勉強をしなくてもいい。そのうち自ら情報を取りに行く楽しみを覚えたように思う。
マンガや小説は、ずっと「いつかアウトプットするときのための修行だ」という想いだけは持ってきた。
すると一面では心から楽しんではいないようだが、一面では「この作品は自身にとってどのような価値が?」という疑問も持っている。
気楽に享受していないが、それはそれで深く対象を読み込む、ということにもなる。
どちらがいいかはわからないが、人生は、時間は有限であることを考えると、そういうやり方もありかな、と今は思っている。
一時はブックオフで大量の漫画を立ち読みしていた。2-3時間だろうか。立ちっぱなしはきついが、それを忘れるような漫画を探すのだ、というミッションだ。
最近はあまりそれをしなくなった。いまは体力と時間を考えて、なんらかの形でアウトプットを主体にしよう、と思っている。
運動映像をみるのではなく、自身で運動する主体性、ということから、こんなことを考えた。
(たまにとことん読みたくなりますがね)