仕事は手段ではない、目的だ。よりよい仕事、よりよい作品のために、さらなる精進を重ねるその人は、自らの内面しか見ていない。あるいは自らの内なる「神」を見ている。仕事は神への捧げものなのだ。
P.78 池田晶子 人間自身 考えることに終わりなく
ソクラテスがその論戦において常勝したのも、この理由による。君が正しいと思うことが正しいことなのではない。誰にとっても正しいことが正しいことだ。個別を指摘し、普遍へ返す。普遍のロゴスは不敗なのである。
人がロゴスを獲得するのは、したがって、その正しさを主張するべき自分というものを捨てることによってのみだ。自分の正しさを主張するための言葉は、定義により、正しくはあり得ない。言葉をして語らしめることにより、人は自ずから正しい人になるのである。この事態をもって「ロゴスに乗りうつられる」と私は呼んでいる。
いくぶん秘教めいてくるが、言葉とは本来そういうものだろう。人間が言葉を語っているのではなく、言葉が人間において語っているのだ。言葉はそれ自体が宇宙である。
P.86-87 池田晶子 人間自身 考えることに終わりなく
池田さんは、見えるひとだった。いや、オカルトではない、心霊でもない。真実が、あるいは真実にあって人が語っているかが、”別に見たくもないが見えてしまう”。
生きること、仕事をすること。語ること。
所詮、というべきか、結局というべきか、正しさと善のために、人は生きる。ただ、回り道をしているひとはいる、ただそれはそういう段階にあるが為だ。
そんな言い方をすると、「今生」ということばが出てくる。今生の別れ、などという。次回の生であえますね、とそういう意味だ。いささか負け惜しみ、本当にそうか?という意味もどこかにある場合が多いのかもしれないが。
そこで、生は正である、ということばを池田さんが発する。そうか!となる人と、なにを言っているのか、という人がある。それはそうだ、その人の状態によってわかる、わからないがあるのだから。
だが、そこが「神のことば」である、そう、宗教ではない、あなたのなかにある「神」である。普遍的な、なにかである。
それが触媒として働くのであれば、それはそういう”満ち潮”にあなたがあったということだ。寿ぐべきことだが、別に偉いわけではない。たまたま、だ。そこはよく間違えられるのだろう。
偉い、は自他を分けることばであり、言い訳をするためのことばでもある。ああ、私は偉くない、なんてあの人は偉いのか。
まあ、もうだいぶん池田さんはめんどくさくなっている。だが、池田さんは面倒見がいい。放っておけない、だから言葉を残そうとされたのだ。
このことを称して”有り難い”という。紋切りにお礼を表現する言葉にはなっているが、本来の意味は漢字を見ればわかる。そう、”本来はそうでなくても仕方がないが、あなた様のおかげでさずけられたことがらであり、それに感謝します”という意味である。
そして、”仕事”。あなたは生きる為に食べる人ですか。食べるために生きていませんか”
それでも、いい。わからないのはあなたの所為では所詮ない。でもこの言葉で、もしわかるのであれば、いいですよね。
池田さんの構えは、こうである。
すごく、やさしい。
自らのことを”巫女”と称される場合が多かったが、その構えをみると、”聖母”の構えもお持ちだったということがわかる。
”哲学の聖母”。
おお、ちょっと新しくないですか?
正しいことを、正しくする人生。そしてそうであることを、人に伝える。それは、すこしく、”祈り”にも似た、所作といえるのかも、しれない。