世界の成り立ちの一番初めをいうのであれば、それが「一」であろうと、「全」であろうと、「神」であろうと、はたまた「無」であろうと、だいたいが言いたい対象は同じであろう。
そのものをどう表現するか。
それはどちらかというと気分であり、表現者の資質であり、そのものが育った社会の文化や文明による影響による、といっていいのかもしれない。
それはすべてであり、すべての始まりであり終わりであり、根源であるのだから、一方で様々な様相や外面や内面や歴史や成り立ちを持ちうる。
それを見ることは一生、あるいは今生では無理かもしれないし、いまここで叩いているPCのキーボードがそれをあらわしている、ともいえる。
現実をどう見るか、がその次にくるのだろう。これを仮象とみればマトリックスのような世界観につながるが、あそこでも脳内世界を生み出す人類は眠りつつ存在しているわけであり、つまりはその「眠る人類」のそもそもの存在如何、という問題ではあるのだが。
現実を完全な無ではないが、ちょっともろい、あやふやな、有と無の中間のような、仮の、というような考えかたもある。ここで効いてくるのが、「時」という要素だ。
「時」は考え方の癖のようでありながら、それを「変化」というのであればないと言い切るのは難しい感じもある。だが、変化=時、とは言い切れない、ほかの要素、あるいは「時」を「時」と言いたくなる心情、ポエジー、のようなものがそこはかとなく見え隠れしている。
輪廻、もそうだ。死を直視したくないから、「生まれ変われる」と無理やり信じ込んでいる弱い気持ちの表れだ、と子供のころは思っていた。
だがどうだろう、集合的な深層心理、みたいなものがあるのかなと思ってみると、その一部が仮に「魂」としてこの体を一定期間動かして「この世を経験し」物質としての肉体の耐用期間終了後再び大海としての集合的深層心理に戻って、全体の内の一部に元ってゆく、というようなことも、もしかしてあるのかもしれない、と思うようにもなった。
生物が魂をもつのなら、静物ももしかして。
そんな感じが日本で発達した「草木本土悉皆成仏」という考え方だろう。植物はなんとなくわかるが、本土、とくればもう土、これが硬くなれば鉱物なわけで、長い目で見れば(昔生きていたものの後工程)ともいえる(全部ではないにしろ)。
魂、といってしまうと、生きているものの専有物という感じがあるが、中にあるなにか、といえばこれはものに魂をみた八百万思想ともつながってくる。
まあ、だいぶ妄想めいてきた。朝井筒俊彦の本を読んでいて、それこそ一日に1ページ行くか行かないかというくらい内容が凝縮されているのだが、ちょっと思いましたので個人的備忘まで。
(1ページの充実。昔は小林秀雄で度肝を抜かれましたが、井筒さんも相当ですね。。。)