というようなことをつらつら考えている。
人の承認を得る、とは他人と自分を比較することであり、他人の眼を気にして、他人の気に入るように自ら動くことである。
自らの評価方法と、他人の評価方法が違うときに、他人の評価を得るように動くことである。
媚を売る、ということにも繋がる。
僕もそうしがちだ。
だがどうもなにかすっきりしない。
なんなのか、これは。
人は他人の評価を精神的な糧として貪欲に取り入れる本能的な動きをしてしまう。例えばものを買うこと。これも例えばブランドであればそれを作り育てた製作者の技術や伝統をカネを払ってその代償として受け取る。
これも間接的な他人の評価と言える。伝統の職人にかしづかれるワタシ。
学生に取っての”勉強”などでも、他人との比較は地獄の始まり、という。
もちろん自分の立ち位置を確認することは必要だろう。
しかし内田樹先生がよくおっしゃるとおり、同世代のなかで相対的に位置が高ければ、受験に合格できる。だから”他人を蹴落とす”ことも立派な”位置上げ行為”であり、本能的にそれを取得しつつ、本能的に”自分を高める”ではなく、”より効率的に群れの上位にいく”という戦略を(無意識に)取っている子供たちは、他の子供の邪魔をする。
そのときは相対的に取得する自らの学力は勿論どうでもいい。
自分を高める、という意識は基本必要ない。なぜなら、生き残るための純粋な手段なんだもの。この世界がたまたまそうなっていたのだから。
これはこの世界の成り立ちを完全に他人に任せる意識、諦念が根底に”常識”として、ある。
そういえば受験会場で余裕を見せていた人間がいた。それを見てこころかき乱された。気にしないようにしよう、と必死で自分の気もちをコントロールしようとする、というかき乱されだったかもしれないが。
しかしいくら人の賞賛を得ても、寝溜めできないのと同じで、或いは贅沢といっしょで、際限がない。いくらでも、どのようなステージでも、ほしい。
それを一度高濃度で得てしまうと、なかなか普通では満足できない。スポイル、といってもいいかもしれない。
美味しいものばかり食べる人は決して賞味期限ギリギリのものでは満足できなくなる。良いクルマにのるとspec downはわびしさがつきまとう。
全ての根幹にあるのは”他人の評価”。人間が生物として持っている自己保存の本能なのかもしれないが、そこを意識的に見て、自分を客観的に見て、自分を高める。
池田晶子さんがおっしゃるところの、
”善く生きる”
結局これしかないのではないか。
自分を、自分の目で、見る。
その見るときの眼は、相当意識してきちんとした眼を作り上げることが、必要だ。結構、これむつかしい。
しかし、ここそこにある、人間が”食べるために生きる”の基本である意識、他人の評価を以ってエサを得る、
これに意識的であり、そして”生きるために食べる”にすること。
これが云わば人となるための(困難な)基本ではないか。
そんな風に思っている。
最近snsで会社の上司に評価を求められうっとおしい、という記事を読んだ(読売新聞、1月10日、「ソーハラ」増加)。
僕はface bookはやっていないが、きちんと本名を出して電脳世界にアクセスする、という姿勢は潔い、とされるというか、海外では当たり前だ、と説明されてきた。
果たしてそうか?特にこの日本。
記名であることにかこつけ、立場の弱い部下や意中の女性にアクセスする手段とする。
・・・とてもうっとおしい。
やりたくない。
そんな関わり方をする人としゃべりたくない。
そう思ってしまう。
記名であることの潔さはわかるが、そうであれば僕は”潔くなくていい。”
匿名であることの卑怯は、池田さんのことば”面と向かっていえないことばは書かない”を基本として、耐えてゆきたい、と思っている。
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今朝こんなことを書いて、風呂に浸かっていたら、
”神は自らを助けるものを助く”
ということばが不意に浮かんだ。どこかの格言かもしれないが。
あとちょっと文法的に?かもしれないが。
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これも1月12日の読売新聞からだが、口論の作法、という特集で精神科医の和田秀樹氏がこう述べていた。
”空気を読むという言葉が象徴するような同調圧力の強い社会になっている。”
この辺りが記名であるface bookに僕が感じるうっとおしさの一因であるかもしれない。ここのガス抜きをするための”匿名”の効用。
そして同じ日の”五郎ワールド”。
「自信、自愛、そして自尊の心をもって、いまこの瞬間を精一杯生きることだ」
川島廣守 「魂の感動」より
(アマゾンでは出なかったので私家版かもしれない)
どちらかというと、自愛、などというと否定的な意味あいが薫染している気がするが(おこがましい、偉そうだという)、その意味合いは考えてみれば全て他人の眼を気にした物言いである。
自信を持って自らを見つめ、自らの心の(魂の)声に耳を傾け、静かに、淡々とやるべきことを考えて、実行する。
それが永遠であるこの瞬間を生きる、ということだろう。
引用されている言葉がいちいち素晴らしい。
「生きるのだ」
いのちいっぱい
いきるのだ
念じ念じて
生きるのだ
一度しかない人生を
何か世のため人のため
自分にできることをして
この身をを捧げ
生きるのだ
念ずれば花ひらく 仏教詩人 坂村真民
「烈士暮年 壮心不巳」
年齢を重ねても尚、研鑽精進の精神を持つ者は老いることを知らない、の意。 魏 曹操の言葉
そして今朝読んだ池田さんの言葉から。
連帯することによって自覚されるのは、宇宙史における人類の位置、もしくは人類の精神史の謎めいた意味である。
謎の意味は、謎のみが知る。
考える日々Ⅲ p.56
- 作者: 池田晶子
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人類の精神史、といったときの、言葉、というものの占める位置は決して小さくない。池田さんなら、”全ての言葉は絶筆です”とおっしゃるところだろう。
こうして書きなぐっている、言葉も、また。