夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

美、とはなにか。

真善美、ということばがある。

あまりにも当たり前すぎて、わざわざ言うことがすこし気恥ずかしくなる、と言う向きもあろう。

しかし、本当にそうであろうか。

当たり前だが実は一番難しいこと、理想だが出来ないこと、ということで敬遠する思いがないだろうか。

やれてないから。実の生はそうはいかんよ。

そうなのか。あきらめたら、さもしい生になってしまわないか。

池田晶子さんがおっしゃった。

差別は良く無いって?

でも上品な人、下品な人は必ずある。

生まれ、とか、金持ちである、とかは勿論関係がない。
魂、が上品なのである。

そのような差はあるし、大いに”差別”したい。


そう言い放った池田さんに、だれも”差別論者だ!”という批判はなかったという。批判などあるわけがない、のは当たり前だが、

当たり前なことは、個人の意見ではなく、事実として当たり前である。それは全ての人にあてはまり、それこそが言葉の価値である。

そのことを文筆活動を通じて体現されていた方だと思う。

文句があるならかかってらっしゃい。

その態度が逆に、”真実は個人的な意見などではない”ということを、心の底からわかっていらっしゃったことを示すのだ。

しかし、”図らずも”美を体現する池田さんに言われるからこれはまた、いいわけで。

魂が美しい。考え方が美しい。姿が美しい。

これは意識して獲得すべきものだ。

生まれつき頭がいい、美しい、足が速い。

それは”差別”ではなく”事実”だ。だがそのことはその人が”偉い”わけではない。しかしなぜか人はその人が偉いから”恩寵”としてそれを”賜った”と感じる癖がある。誰から?神?運命、という名の女神??
”天才”の苦悩と孤独はそこにある。

注意すべきは”獲得するもの”と”生来のもの”の両方に”美”が入り込むことだ。

どっちなのか。

どっちもだ。

そこが難しいところ。

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”美しい”とはなにか。

真善美、とくるなかで、これは実は一番に難しい、と感じる。どうして?
なにが、”美”なのか、大変に”個人差がある”。果たしてそうか?
共通する美、というものはあるのか。あるように思う。だがそれが大変見えにくい、あるいは”修行”が必要なのかもしれない。

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・・美、とは最初に来るものだ、と思う。

最初、とは、美があり、それを契機として、人は善や真に思い至るように感じられるからだ。

美を見る、感じる、そのことがやがて真や善への正しい憧れを導く。そんな気がする。

なぜなら、本当の”真”は美しいからだ。
本当の善もまた。

美しいものは、人は端的に好き、なのだ。生まれてすぐの赤子にさえ、生への本能に次にくるのはもしかして美しいものへの志向ではないか。より強き子孫を残す、というDNAの要求もあるように思うが。

人によっては対象は違うかもしれない。が、心が”美”と感じるものへのこの切ないほどの憧れ。愛。それは同じ。

美しいものを遺したい、という思いこそ人はすべからく心の底に持つ思い。それが前面にでるか、沈んで見えにくくなるか、の差はあるが。

そうしたことをきちんと考え、それを以って”善く生きる”こと。それが出来ている人が”上品”。それをあきらめて、抑圧し、”奇麗事では生きていけない”ということで自己正当化する魂、それが”下品”な生き方を導くのだろう。

いや、理想はわかります。ですが青臭い理想論ではパンはかえませんぜ。

そんな物言いが虫唾が走るほどいやだ。

そう池田さんはおしゃっていたように思う。

そんな感覚が正しい、と感じる。なぜにあきらめるの。あきらめなくてもいいのに。本当に努力したのですか。

そんな池田さんの思いを感じる。

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そんなこんなをつらつら考えた契機はこの本。

芸術新潮2月号 小林秀雄 美を見つめ続けた巨人

”美”を”見つめる”という行為を意識して行うことは、実は稀なのではないか。

そんな気づきがあった。多くは無意識に、飢餓感が食餌を求めるように”美”を求める。そのことに意識的であれ。

そんな小林の思いを感じる。

”美”を見つめること。それは己が魂を翻って覗き込むこと。

小林は1948年秋、45歳ころに、宝塚の清荒神清澄寺で冨岡鉄斎の”富士山図屏風”を3時間以上見続け、4日間ぶっ通しで朝から晩まで約250点もの鉄斎を見続けた、という。(同p.64)

端的に感じる。すごいことだ。それが出来ることは。
美、をきちんと見すえていなくては出来ないことだ。
美、への敬意がある。あくがれ、がある。魂の底からの希求がある。

芸術新潮 2013年 02月号 [雑誌]

芸術新潮 2013年 02月号 [雑誌]

個人的に、宝塚、と言う土地に思いいれがある。箕面、という駅にあった母方の実家で、初孫であった僕は弟が生まれるときに預けられたという。
勿論記憶はない。その後数多く宝塚へ足を運んだ。”キヨシコウジン”という妙な語感を遺す土地のことも、大人たちの会話からよく聞いた。

切なさ、を含む郷愁、といえば良いだろうか。

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そしてもう一冊。

高橋健二著、”ヘルマン・ヘッセ −危機の詩人”

ヘルマン・ヘッセ―危機の詩人 (新潮選書)

ヘルマン・ヘッセ―危機の詩人 (新潮選書)

前回の項でも述べたが、ヘッセの生きた流れが順を追ってわかる。ヘッセに実際に8度も会った作者ならではの、云わば一部ヘッセ化したような記載が素晴らしい。

”詩人”としてあらざるを得ない自らを、どのように”世間に示し”たのか。美を求めるヘッセの苦闘の姿もまた、美というものを考える契機になった。

しかしまあ、小林、ヘッセ、そして文士といえば澁澤龍彦生田耕作、といった人々はなぜにああ凛、とした姿を示すのだろうか。

前のめりに美を、生を、求め続けているから、なのかもしれない。

そういえば、ヘッセが言ったそうだ。

男は、遠くを見るので、女性から理解されない。

すべてがそうとはいえないかもしれないが、生きる、ということへの貪欲さ、本能、生命力のようなものが違う、という気は確かにする。

その辺が生物的な差、かもしれませんね。

であれば男としての生の希求、その原動力にはもしかすると”美”というキイワードがあるのしれないな、という風に思っている。