夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

新生活より⑥

井筒俊彦曰く、東洋哲学の考える自己とは、現実をも一つの層でしかない、という自覚のもと、現実と精神を含むすべてを観想的に一挙に自覚した主体性のことであるという。

P.51 井筒俊彦 意味の深みへ からの個人的理解。。

東洋哲学がそう考えるのはなぜだろう。どこかに、「現実以外のものがあり、重要である」と考えたい、というような思いがベースにあるような気がしてならない。

宗教の存在理由は、決して現世では知ることができない死後への不安を和らげることであろう。そういう安心がある、ということを言われ、それを与える、といわれることがつまりは宗教というもののはじめと終わり、なのではないかと思っている。

だがそこには「功利」のにおいが漂う。信じるという対価に対し、救いを約束する。死、というテーマがこの世のたぶん一番重い問題であると感じる人が多いがため、そこへの「答え」があると提示すれば、そこを希求する人がほとんどであることは、特に近世以前は当たり前田のクラッカー、かもしれない(すみません)。

だがそこがうさん臭いのだ。金が、信心の証として拠出要求される。だが受け取ったものが、より多くのものを救うため、とたぶん言うのだろうが、実際は結果として「あるいは金儲けしたかったの?」と思われることに使用されることがあったのかもしれない。

そのジレンマ、というか、人間であるが故にこたえを永遠に現世では得られないことをむしろ超えてゆきたい、という解決の仕方もあるだろう。

そこで「東洋哲学」である。そもそも重要なものと重要でないものの差異はない。あるがままで多重構造。

そう言う形での理解は、いわば「死を超えたものを想像すること」につながる。結果的に「死」というものの重要度が考える主体の中で重たくなくなる。

表面的にはどうであれ、そこになんらかの「死への不安」があるのではないだろうか。注意深く迂回されてはいるものの。

それが「いい」とか「いけない」というわけではもちろんない。だが導きたい答えがあり、それへ近づこう、とすることは、たぶんそこはかとない「我田引水」があるのではないか、と思うだけである。

(結局は哲学とは「死」を考えること、宗教は「死」をいわば信じることで思考停止して考えないようにすること、という面があるのではないでしょうか)

 

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