夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

宗教とはなにか。(宗教間の関係性もふくめ)

宗教、というものは、現代日本においては非常にセンシティブな事柄となっていると感じる。

人々の宗教へのアレルギーが大きく上昇したきっかけは、やはりオウム真理教であるだろう。

カルトに分類される同教であるが、ヨガ教室を経て精神世界の要素を導入、出家形態の仏教集団として密教ヒンドゥー教キリスト教疑似科学ニューエイジ等の思想を導入した教義を作成した。

平成の宗教状況を紹介した釈徹宗氏の論説(*)を読んだ(上記オウムの情報も同稿による)。

その中で、世界の各宗教間のさまざまな関係性が紹介されていたものが、大変参考になったので、備忘の意味も込めて記載しておきたい。

(*)内田樹編 街場の平成論 2019.3.30初版 晶文社刊 (同論説は同書への寄稿、釈徹宗「平成期の宗教問題」から)

宗教同士の諸関係論

宗教同士の関係は、宗教自体の社会の中での位置づけの変化に伴い変化してきている。そも原始時代であれば、それは部族を導き、方向性をしめすきっかけとなるシャーマニズムであったろうし、文字のない過去の記憶から立ち上る神話でもあったろう。

そこにある神々は、自然の擬人化であったろうし、支配体系を権威づける仕組み(場合によっては方便)でもあった。また、死を厭い、今世の意味を求める意識への意義付け、日々の暮らしのよすが、そして道徳的な導き、といった面も持っていた。そして社会組織を人の意識面で強固にする生活面での密着性をも持っていた。

そうした形でさまざまな理由で世界各地に生まれた宗教であるが、世界、というものを意識した際、あるいは異国、異文化とのコンフリクトの際に別の宗教体系との邂逅、遭遇が発生した。

そのとき、果たして別の宗教をどのように定義付けるのか、ということは大きな問題となったろう。

当然ながら”侵略者の異文化”として遭遇すれば、そこには反発の関係のみ発生する。だが、不幸にして侵略されれば、次には異教への改宗を強制されることになる。場合によっては治世しやすくするための侵略宗教による被侵略宗教の取り込み、もあった。

このように文化の揺籃期においては、宗教とは”対立するもの”というのが基本になるだろう

現代における宗教間の関係

現代においても宗教はイスラム教の欧米での状況をはじめ対立する要素が強い。

だが、冒頭で述べたように、例えばここ日本という国においては、宗教というものは”基本社会生活とは離れたもの”という意識が強い。これはキリスト教国においても、日本と同様、とは言えないながら進んでいると思われる。

例えばキリスト教イスラム教が、同じく日々の生活に染み入り、律するものであれば。2つの宗教は過去と同じく対立の構図が中心になるのだろう。

しかし、イスラムに比して、キリスト教国、あるいは日本のような国においての宗教の位置付けは、政教分離の原則を例に出すまでもなく、自然に、人々の意識の中で変化している(ただし、各国アンケートによると、日本における宗教の意識は欧米と比べても特に低いようだ。それに対し米国ではこれは欧州と比べてイメージよりも大きく宗教的である。あるいは共和党民主党の対立のなか、とくに共和党支持層(特に南部の、銃社会で進化論を信じない層)の影響が大きいのかもしれない。また日本においては、”私は宗教を信じている”という位置で暮らすことへの心理的ハードルが余りに高い気がする。日本人の意識のなかで、”敬虔に、宗教心(神を信じる信じない、の2択ではなく、森羅万象を大切に思うこころのような)を大切にする”という項目については、他国では単純に(神を信じている)という回答と同じような部分を占めて、肯定的になる。多分、質問として”神を信じるか、YES,NO"の設定が、日本人にたいしてはすこしミスマッチであるのかもしれない)。

そもインターネットを通じ、人々の意識や生活は、すでに大きく仮想空間へ移動しているとも言える。SNSで、否が応に、国境を"越えさされている。”

そこでは、”宗教”はすでに触れるべきではないタブーでもなく、論じることがはばかられすぎる、ということもない。

そこで出てくるのが、”どのように宗教間でやっていくのか”である。

ここで少し宗教に関する対話の態度について説明しよう。これについては、アラン・レイスが三つのタイプを提示している。排他主義(exclusivism)、包括主義(inclusivism)、多元主義(pluralism)の三つである(Alan Race,"Christians and Religeorous Pluralism",SCM Press)

まず、「排他主義」とは、自宗教を絶対視して、それ以外の宗教に意義を認めない立場を指す。例えば、3世紀初頭の教父・キプリアヌスの「教会の外に救いなし」といった言葉に代表されるような立場である。(中略)宗教は信じている者と信じていない者との境界を生み出す。その境界を生み出さないような宗教であれば、生きる力にもなり得ないであろう。大切なことはその境界を超える回路をどう担保していくかである。

 次に「包括主義」とは、自宗教の絶対性や優位性を保持しつつ、多宗教の意義を認めようとする立場である。キリスト教で言うならば、キリスト教の眼から多宗教の意義を認めようとする立場である。たとえば、本地垂迹説(日本の神々の本性を仏教の仏であるとする説)は、包括主義の実例として見ることができよう。(中略)つまり、自宗教と他宗教は断絶しているとする排他主義に対して、包括主義では何らかの連続性・共通性があると捉えるのである。ただあくまで自宗教中心の見解なのである。

 そして第三の立場として提唱されたのが、「多元主義」であった。一九八〇年代に注目を集めた宗教多元主義は、自宗教と他宗教を並列に捉える立場であり、価値的優劣を判断しない。多元主義の思想を展開したジョン・ヒックは、しばしば「神はさまざまな名を持つ(普遍の神がそれぞれの宗教の名で呼ばれているだけ)」「ランプはいろいろと違いはあるが、中の火は同じ」といった比喩で、それぞれの宗教が通底していることを主張した。

 引用:平成期の宗教問題 釈徹宗 P.229-231 街場の平成論 より

 国により、その歴史、文化、人種間の違い(生活や慣習からくる考え方の違い)により、発生する宗教や神の形態が違ってくるのは当たり前である。そも通信し、対話し、相互で理解することが困難であったのだから。

しかし、今の時代、インターネットにより、国家間でなはく、個人間の自由な、主体的な、個人の嗜好に沿った”世界との接触、会話”が可能になってきた。個人的にもたとえばインスタグラム、好きな写真の解説が一瞬で翻訳でき、その感想が伝えられる/受けられる。

もちろん宗教問題といったセンシティブな会話をインスタで実施することはすぐには困難だろう。しかし、国家間の対立を通した国民間のコミュニケーションではなく、個人が、すきなように、すきな相手と、コミュニケーションできるわけである。勢いそうした相手との”はらを割った”会話の可能性も高まるだろう。この変化は、その中でその機能を享受しているとあまり感じないが、大きなものである。いや、すでに感覚的には人は”地球在住の人類のうちのひとり”として自らを把握し始めている。

青山俊薫老師の言葉

たとえば、今日、購読している雑誌「致知」11月号で、愛知専門尼僧堂堂頭を務める青山俊薫老師のインタビューを読んだ。5歳で出家、87歳になる今までを修行に努めた方の言葉だ。

17年間師事した(傍で直接仕えたわけではない)澤木興道老師の言葉として、「仏法とは相手を変えるのではなくて、こちらの目を、こちらの頭をつくり変えることだ」を挙げられている。またともすれば人は「欲」というものとの距離を測りかねて、欲を無理やり肯定したり、無理やり否定したりするものだと思うが、その欲を

人間には誰しも欲があります。この欲というものは命のエネルギーですから、とても大事なものです。 言い換えれば、気づく、気づかんに拘わらず天地総力を挙げての働きをいただきながら、この命があるわけです。

とされる。

命が尊い、自らの命がかけがえがない、と人はまずは思っている。が、どこかで不審の念があるものだ。自らの命、生きていることに意味は特段ないのではないか。

生まれてしまった、あとは死ぬまで生きるしかない、という。

だが、尊くはなくとも、意味はなくとも、天地の中でこうして“生”があり、生まれ、老い、病気を経験し、死ぬ。このことが奇跡的であることは間違いない。

この世にあることはすべて奇跡的なことであり、軽重もない、卑賎もない、重要であることもないこともない。

そこに気がつくこと、そうすれば、

澤木老師はそれを「天地一杯の命」、内山老師は「皮の突っ張りの中だけで生きているのではない」と表現されました。

致知 2020年11月号 P.17)

となる。

そう、無境界、である。一である。すべては全になる、である。

こうした”一”に宗教の差異による違いはあるのだろうか

勿論、私は各宗教に通じているわけではない。だが、その底にある、それぞれの宗教が求め与えようとすること。

偉大な宗教の、その教えの本質には、通底する真理があるように思う。

そう、真理。

そしてその真理を伝え、分かち合い、分かり合い、それを生きる。

そのことを行おうとする行為、魂こそが、”宗教”といわれるものの本質では

ないのだろうか。

 

 

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