夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

息苦しさ(=生き苦しさ)がある。求めない、が必要では?

求めない

『求めない』 加島祥造

『求めない』 加島祥造

を読んだ。

著者が80才を超え、今まで50年以上書いてきた日記、それまでは読み返すことはなかったそうだが、を昼寝の時読み返すようになって、64歳の時そのようなことを日記に書いていたことを、本の内容自体が生まれてから気づいた、という。

長い潜伏期間を経て、ある日突然堰を切ったように生まれてきたという。同じようなことを詩人の茨木のり子さんも述べていたような気がする。詩は時には30年以上心のどこかに引っかかっていて、ある日詩として生まれることがあるという。

まさに言葉が、自分の無意識という土地に埋められて、熟成して条件が整えば発芽する、といえる。条件が揃わなければ発芽しない。テーマを暖める、というのも同じだろう。その時種子として持つものは個人独自のものだ。類似がないということではない。個人にとって必要な言葉、テーマである、という意味で、独自となるのである。

国際読書年の座談会で作家の林真理子さんが、子供の時に本をよくよんだ子供は知のインフラが出来て、中学・高校時代に成績が大きく伸びることが多い、と述べておられる(読売新聞1月10日)。これも似た部分がある。無意識の中に読書により知恵が蓄えられ、それが知力のアップを促すのだろう。だがここで、それなら学力を上げるために子供のころ読書させよう、は良くない。”あなた、勉強できるように今本をよんでおきましょう”。

即物的に、勉強できる(=人を出し抜く)、という部分が垣間見える時、行為は卑しく、いぎたなくなる。手段としていいのはわかるが、果たして人は本質的にそれを喜ぶものであるか?魂が納得しない。池田晶子さんが言った。なぜ人を殺してはいけないか。魂に悪い。人は初期条件としてそのことがわかる。たまにわからない存在が出る。それは古来鬼とされてきた。少年Aと呼ばれた人物に対し、そのように述べられた。潜在意識といってもいいかもしれない。世界意識、無意識でもいいかもしれない。

であれば、人はその中になにをすべきであるか、ということの指針を持つのであろうか。睦田真志氏が獄中で池田晶子さんの”帰ってきたソクラテス”をきっかけに卒然と理解したように?

きっかけがあれば、理解できるのかも知れない。だが、それは睦田氏のように、罪を犯したのち、獄中という特殊条件があって初めて、ということもあるだろう(だから睦田氏は逮捕されて、悟りを得る(=宗教的ではなく)ことが出来た機会を結果的に提供してくれた処罰の仕組みに、国家に、感謝の念を抱いたのであろう。本来処罰のシステムはそれを理想とするものだろう。だが、反省しなさい、として人に自分の意思に反して、と感じられる形で与えられたとき、人は反省したふり、と反発、の2つしか示さないのではないか。それは勉強しなさい、と余りにも似ている。

監獄と学校はその意味で同じ仕組みだ。だが両者とも狙うべきところは本質的には別である。何を寝言言っているのか?精神論で就職できるのか?受刑者ということで世間は雇ってくれないではないか。

その通りだ。だが、食べるために生きるのではなく、生きるために食べる(モリエール)所にすべての人が到達した社会であれば、そこには人を出し抜く読書もなく、罪を犯しても、本来の意味で償えて、犯罪者もそれ以外の人も、本来の意味で同格に、人格として付き合い生きあえる世界となるであろう。これが理想国家であり、それは哲人社会(国家)なのかもしれない。

そのときに人がもつ気持ちこそ”求めない”ではないか。

古来為政者は知足の気持ちは発展を促さない停滞の思想であるとしてその価値を認めながらも、いや、認めるから、恐れ排斥してきたという。確かに狭い範囲、究極は”人より自分がうまくやりたい”が根っこにある動機付けの生き方では、この考えは相容れない。また、発展途上国が、発展の足がかりを得たとき、それまで先進国に搾取されてきた、の思いからこれからは自分たちの番だ、だからいまさらCO2削減とかで自分たちの環境を守ろうとするのはずるい、というのも、同じだ。自分が損をするか、人が得をするか。それが在る限り息苦しい。そう思っている人を心から変えることは困難である。しかしなにかあるのではないか。求めない、ということをもし仮に全ての人が考えたら?

今の日本、格差社会、超高齢化社会、就職困難、年金不安、世界の中での存在感急落、中国に抜かされた、国内空洞化、ゆとり教育の弊害、英語が出来ない、国際意識の欠如、といろいろある。全ては”自分(あるいは自分の家族、家系)の生活が不安だ”に発する問題ではないか?

政治、というものが痛いのは、究極は政治とは”庶民が政治家にやってもらう”という人任せであるところではないかと最近感じる。だから責任感なく、政治家に求める。権利として。その姿は美しいか?自分は棚に上がってないか?

しかし、”求めない”思いが全ての人にあれば、政治家に”やってもらう”ことは無くなり、政治家とは自分と同格であり、社会の仕組みつくりを役割分担としてやる人、となり、単なる一つの仕事である、ということにならないか。そこを理解した社会が哲人国家、なのであろう。

其処に為政者はいなくなり、無辜な市民はいなくなり、庶民(この言葉は使われかたによっては、俺らはしらない、お前ら金儲けしているんだからちゃんとやれ、と聞こえてしかたない)も無くなる。社会主義が強制的に土地を、冨を上から与える時点で押しつけがある。そうではなくて、求めないことをベースに出来ないか。

しかしその世界はいわば野生動物の世界に近いだろう。退歩、と見ることも出来るかもしれない。しかし一度監獄に入る(=物欲の世界を経る)ことで得た理解をもって、いわば意識して野生動物の世界に戻るとき、人はエデンの園に戻るのかもしれない。知恵の実、とはその象徴、理想があり、そこから厳しい競争にあけくれる社会への移行の象徴。エデンで人が裸であったのは象徴的だ。裸でも問題がなかったのだ。

返す返すも残念である。池田晶子さんが従来の”政治”に全く関心がなかった池田さんが、文部大臣(当時)になる、と敢えておっしゃったのはそのあたりを考えてのことであろうと考えるからである。挺身。しかし池田さんの1000年先に向けたメッセージの著書群は、政治の発信するメッセージより或いはより深く、この世に伝わってゆくものであろう。